今度はTV編です。CWC絡みでばたばたして更新もままならず。

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一ケ月ほど前に、イタリアのスポーツ新聞をめぐる話題を取り上げたが、今回はそのTV編。

サッカーに関する情報量の絶対的な多さに関しては、新聞報道同様、TVのそれも日本とは比較にならないものがある。伝統的な地上波の放送局に話を限っても、セリエAの開催日である週末は、サッカー番組を中心にタイムテーブルが回るといっても過言ではない。

セリエAの試合は、地上波では一切生中継されない。他のヨーロッパ諸国もそうだが、国内リーグの中継はペイTV局(衛星、地上波デジタル)が行うというのが基本だ。したがって、地上波サッカー番組の内容は、報道(プレビューやインタビュー、試合レポート)と論評(議論やトーク)でほとんどすべてということになっている。

セリエA10試合のうち8試合が行われる日曜日は、午後いちから夜中まで、TVをつければ何かしらのサッカー番組が放映されている。昼過ぎからは全国ネットの民放局メディアセット(ミランのオーナーでもあるベルルスコーニ首相の所有)で、その日の試合のプレビューを中心とした1時間ほどの番組。

午後2時半からは、国営放送局RAIで、スタジオに芸能人のゲストを10数人呼び、サッカーをめぐる軽いトークを繰り広げながら、各地で行われている試合の途中経過に一喜一憂するというバラエティ番組がスタート、これが午後5時近くまで続く。

それに続いて今度は、試合終了後の全スタジアムから両チーム監督のインタビューを伝える番組が6時まで。これは、RAIとメディアセットの両方が別々のレポーターを送り込んで、同じような番組を流し競合している。

6時からは、その日のハイライトともいえる、セリエA全試合のダイジェスト番組が始まる。試合をレポートするのは、各局のスポーツ記者。

日本で同種のサッカー番組を見ると、1試合あたり数十秒の映像でゴールシーン+αだけを流し試合結果を報告する程度で、いったいどんな内容の試合だったのか、まったくわからないことが少なくないのだが、こちらは1試合あたり3~5分を費やし、試合経過を紹介するだけでなく、本人の主観による分析と批評を交えて試合内容を伝える、中身の濃いダイジェストだ。出来の悪かった選手や采配ミスをした監督には辛辣な批判も辞さない。

試合のレポートを担当する記者は、単なる「アナウンサー」や「レポーター」ではなく、サッカーをよく知っている「ジャーナリスト」。中には女性記者もいるが、報道の質は男性記者とまったく遜色ない。終了から1時間たらず(夜の試合は15分程度)の間に、試合の重要なシークエンスを切り取って編集し、ナレーションの原稿を書き、きちんと試合内容が伝わるレポートを作り上げるその腕力と手際の良さには感服させられる。

この全試合ダイジェスト番組、1970年から昨年までは、国営放送局RAIが「ノヴァンテージモ・ミヌート」(90分)というタイトルで放映しており、日曜夕方の風物詩ともいうべき存在だった。ところが今シーズンは、RAIが高額の放映権料を払い切れず撤退、メディアセットが権利を買い取って、同種の番組を「セリエA」というベタなタイトルでスタートさせた。

「ノヴァンテージモ・ミヌート」は、ジャーナリストが進行役を務める、もっぱら“報道”に徹した番組だったが、「セリエA」は国民的な支持を集めるタレントを司会者に立てて、ややバラエティ色が入ったフォーマットとなった。番組の尺も1時間から2時間に倍増。この変化は賛否両論だが、筆者のように試合の結果と内容だけわかれば十分という視聴者には、余計な要素が多くまだるっこしい印象を与える。

午後いちから続いた“祭り”はここで一休み。夕食どきにサッカー番組がないのは、一家の団欒にとってはたぶんいいことだろう。

一日の最後を締めくくるのは、午後10時半からRAIとメディアセットがそれぞれ放映する、その週末を総括する2時間のサッカー討論番組。弁の立つジャーナリストを司会者に立て、元選手の解説者や一線の論客を何人か招き、賑やかしの芸能人も加えて、試合内容から監督の采配、選手のプレー、そして審判の判定について延々と議論するというフォーマットはどちらも変わらない(メディアセットの「コントロカンポ」は、日本でもダイジェストが放映されていると聞いた)。

中でも、各試合の「疑惑のシーン」をスローモーションで再生し、審判の判定が正しかったかどうか議論するコーナーは一番の目玉である。

審判の判定をいちいちここまであげつらう必要性があるのかどうかは議論が大きく分かれるところだが、話題としてとりあげること自体をタブーとするよりは、まだずっといいような気がする。オープンに議論すれば、少なくとも問題の所在や論点は明らかになり、解決への糸口が自ずと見えてくるからだ。

審判の判定に対する反応は、同じヨーロッパでも国によってかなり異なるようだ。イタリアは最もうるさく、そして喜んでこの話題を取り上げる国のひとつ。物事(この場合は勝敗)の原因を自らの力ではなく他者に求めようとする(要するに他人のせいにしたがるということです)のは、この国の人々の一般的な傾向のような気もするのだが、その話はまた別の機会に。マスコミ関連の話題も不定期で続けます。■

(2005年10月26日/初出:『El Golazo』連載コラム「かるちょおもてうら」#47)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。