つい数時間前、インテルの練習場ピネティーナで、ジョゼ・モウリーニョ新監督の就任記者会見が行われました。

「私がスペシャルなのではなく、インテルがスペシャルなクラブなのだ。私はただのジョゼ・モウリーニョだ。以前からイタリアで、できれば偉大なクラブで仕事をしたいと思っていた。その機会を与えてもらったことに感謝している。あななたちジャーナリストもきっと楽しめると思う」。早くもモウリーニョ節が炸裂して、マスコミの皆さんもわくわくしているようです。

その一方で、つい半月前にスクデット3連覇をインテルにもたらしたロベルト・マンチーニ前監督はすっかり過去に追いやられてしまいました。家でモウリーニョ就任会見の中継を舌打ちしながら見てたりしたのでしょうか。

今回の解任は半ば自業自得だったような気もしますが、それはそれとしても、10年以上誰がどうやっても勝てなかったインテルに4年間で7つものトロフィをもたらした監督であることに変わりはありません。

だからというわけではありませんが、今回はそのマンチョが選手としてのキャリアと当時のゴールについて語ったインタビューを。これは、コスミック出版から出ているDVD付きムック「サッカーベストシーン8・THE GOAL!」に寄せたものです。これを読んで気になったら、ぜひご購入を。

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エレガントな身のこなしと正確無比のボールコントロールで、難しいプレーを当たり前のようにさらりとこなしてしまう一方、ヒールキックのような小技を使って、エスプリの効いたスペクタクルを演出して見せる。自らゴールを決めるだけでなく、どんなFWにも年間20ゴール以上を決めさせてしまうアシストの天才。

ロベルト・マンチーニは、攻撃に関するあらゆるプレーをおそろしく高いレベルでこなす、サッカーセンスの塊のようなプレーヤーだった。「ゴール」(しかも自分が決めたものだけ)という視点は、この万能フットボーラーの全貌からすれば、ごく限られた側面を見せてくれるものでしかない。

にもかかわらず、このDVDに収められた23のゴールからだけでも、マンチーニというプレーヤーのテクニックとセンスの卓越性は十分以上に伝わってくる。

弱冠16歳でボローニャからセリエAデビューを果たし、そのシーズンに早くも9ゴールを記録した早熟の天才児にして、35歳でラツィオに悲願のスクデットをもたらした成熟の賢者。キャリアの始めと終わりを記すこの2つのクラブに挟まれた15年という長い年月をサンプドリアのシンボルとして過ごし、このジェノヴァの中堅クラブに信じられない黄金時代と数々のタイトルをもたらした。

2000年のスクデットを花道に引退してから6年。今はインテルの監督としてスクデットとチャンピオンズリーグという2つのタイトルを目指すマンチーニを訊ねて、19年間にわたる現役時代を振り返ってもらいつつ、DVD収録のゴールにもコメントしてもらった。
 

――今でも現役時代の映像を見たりすることはありますか?
「いやもう全然見ないな。見ないようにしてるんだ。見ると、またピッチに戻ってプレーしたくなっちゃうから。もう家にも自分の試合のDVDなんて1枚も持ってないと思う」

――じゃああとでプレゼントしますよ(笑)。
「悪くないね(笑)」

――このDVDにはボローニャ時代のゴールもひとつ入っています。16歳でセリエAにデビューしたばかりのウディネーゼ戦です。デビュー1年目で9ゴールというのは、信じられない数字ですね。

「言っとくけど、9ゴールっていうのは、得点王が15ゴールかそこらだった時代の9ゴールだからね。セリエAは16チームで、30試合しかなかった。しかも20歳以下の若手なんてほとんど出場していなかった時代の話だよ。今の9ゴールとは価値が違うってこと」

――デビューしたシーズンにボローニャが降格して、あなたは17歳でサンプに移籍することになるわけですが、ビッグクラブからのオファーはなかったのでしょうか?サンプを選んだのはどうしてですか?
「本当ならユヴェントスに行くはずだったんだ。子供の頃はユヴェンティーノだったし、ユーヴェとボローニャは一度は合意に達していたからね。でもその後、サンプからのオファーがあった。ボローニャで可愛がってくれたパオロ・ボーレアがサンプのスポーツディレクターになって、是非来ないかと説得されたんだ。

信頼できる人の誘いだったし、当時のサンプはまだセリエAに昇格したばかりだったけれど、パオロ・マントヴァーニ会長の人となりや、何年かかけてスクデットを目指すという野心的なプロジェクトについて説明されて、心を動かされたんだ。僕は野心的なプロジェクトに弱いんだ」

――当時のサンプドリアはどんなクラブでしたか?現在でいえばどこに例えられるでしょう?
「いや、他のどんなクラブにも例えられない特別な存在だった。他にはああいうチームはないね。時間をかけて少しずつ、当時イタリアで一番有望だった若手を集めながらチームを育てていった。

僕だけじゃなく(ジャンルカ)ヴィアッリや(ピエトロ)ヴィエルコウッド、(ルカ)ペッレグリーニ、(モレノ)マンニーニ、みんなそうしてサンプにやってきたんだ。最初の何年かは、なかなか結果が出ない困難な時期もあった。

でもチームが成熟してからは、イタリアでもヨーロッパでも、手に入るほとんどすべてのタイトルを勝ち取るまでになった。唯一、チャンピオンズカップだけは決勝で敗れてしまったけれど……(*)。

セリエAに昇格したばかりのチームが、コッパ・イタリアから始まってスクデットを取り、最後はチャンピオンズカップの決勝まで行った。こんなストーリーは他にはないよ」

(*訳注:サンプドリアは80年代末から90年代初頭にかけて、イタリア国内でスクデット1回、コッパ・イタリア4回、スーパーカップ1回、ヨーロッパでも三大カップすべてでファイナリストとなり、カップウィナーズカップ1回を勝ち取っている。チャンピオンズカップのほか、UEFAカップでも決勝で敗退。相手はいずれもヨハン・クライフ率いるバルセロナだった)

――サンプに移籍してから勝ち始めるまでの何年かは、あなたにとっても学習と成長の時期だったと思いますが。
「最初の2、3年は完全なレギュラーじゃなかったし、まだ若かったから練習に対する態度もまだいい加減だった。誰でも経験を積みながら物事を学んでいくものだからね」

――最初の何シーズンか、20代前半のうちはゴールも一ケタでした。
「自分がゴールを決めるよりも、ラストパスを送って他人に決めさせる方が楽しかったんだ。僕はキャリアを通して200近いゴールを決めたけど、間違いなくそれ以上のゴールをアシストしてきたからね。

他人からパスをもらってただゴールを決めるよりも、華麗なプレーを決めてその後決定的なパスを出す方がかっこいいと思ってたところもあった。そっちの方が好きだったことは間違いない」

――最近よく、イブラヒモヴィッチが昔のマンチーニによく似ていると言われますよね。
「ああ。そういうところはあるな。偉大なワールドクラスになるすべての資質を備えているからね。確かに僕も若い時には、チームにとって重要なプレーよりも、自分が好きでやりたいプレーを選ぶようなところがあった。

ゴールが少なかったのはそのせいもある。今のイブラヒモヴィッチもそうだ。でも彼にもそのうち、一番大事なのはゴールを決めてチームを勝たせることだとわかる時が来るよ」

――あなたがそれをわかったのはいつでしたか?
「24歳か25歳か、そのくらいになってからだな。16歳でセリエAにデビューしたにもかかわらず、成熟するのは遅かったんだ。22,3歳までは、自分が楽しむことしか考えていなかった。十分楽しんで、それからやっとチームのことを考えられるようになった。25歳から後は、チームの中で常に決定的な仕事ができるようになったし、ゴールの数も増えた」

――サンプが強くなるまでの間、ビッグクラブに移籍したいと思ったことはありませんでしたか?
「もちろん何度もあったよ。でも僕はマントヴァーニ会長とすごく強い結びつきを持っていたし、サンプドリアというクラブにも愛着があった。本気で移籍したいと思ったことは、少なくとも最初の時期にはなかったね」

――サンプは、カップウィナーズカップ、スクデット、そしてチャンピオンズカップ決勝と頂点を極めた後、90年代はじめから徐々に下降線をたどっていくことになりました。長年のパートナーだったヴィアッリがユヴェントスに移籍した92-93シーズンは、どんな気持ちで戦っていたのでしょう。

「サンプの黄金時代の頂点がチャンピオンズカップ決勝だったということは、誰もがわかっていた。それでも、その次のシーズン、ルカ(ヴィアッリ)が去って若手が何人か入ってきて、また新しいサイクルをスタートすることになった時、状況を受け入れるのは簡単じゃなかったよ。でも僕にとってサンプはすべてだったから、その時は移籍は考えなかった。

ただ、このシーズンがパッとしない成績で終わって、それでもチームを補強してもらえなかったら、その時はサンプを去らなければならないとは思っていたな。でも会長はグーリット、プラット、ユーゴヴィッチといった選手を買ってくれて、翌年は素晴らしいシーズン(3位)になったんだ」

――パオロ・マントヴァーニ会長が93年に亡くなってからもさらに3シーズン、他のクラブからのオファーがたくさんあったにもかかわらず、サンプに残ることになりました。踏みとどまった理由はどこにあったのでしょう?

「出て行こうと思えば出て行くことはいつでもできた。でもサンプを離れる気にはならなかったんだ。長年プレーしてきた愛着のあるクラブだからね。最終的に出たのも、マントヴァーニ(パオロの死後会長を継いだ息子のエンリコ)との関係が壊れてしまったことが理由だった。それがなければとどまっていたかもしれない」

――90年代の半ばは、あなたにとって成熟期といえる時代だったと思います。毎年2ケタゴールを決め、グーリットやキエーザ、モンテッラにも山ほどのゴールを決めさせた。
「30歳前後というのは、肉体的な問題さえなければ、フットボーラーとしてはピークだからね。偉大なストライカーと一緒にプレーすることを十分楽しんだ、充実した時期だったよ」

――そのピークが、サンプにとって幸福とはいえない衰退期に重なってしまったのは、ちょっと残念でした。
「そうだね。でもチームとしての結果は以前ほど残せなかったけれど、サッカーを楽しんだという点では充実していたことに変わりないからね。一番大事なのは楽しむことだから」

――今はこうしてインテルの監督を務めているわけですが、現役時代にもインテルに来るチャンスは何度もありました。95年の冬には、クラブ同士が合意して移籍が決まったと報道されたことすらありました。結局移籍しなかったのはどうしてだったのでしょう?
「サンプへの愛着を捨て切れなかったからだよ」

――新しい環境に飛び込むことへの怖れはありませんでしたか?
「もしそんなものを持っていたら、32歳でラツィオに移籍しようとは思わなかっただろうね」

――ラツィオに移籍した時にも、インテルに来る可能性がありました。最終的にラツィオを選んだのは?
「もう一度スクデットを勝ち取るために戦いたかったんだ。インテルもそのポテンシャルを持っていたし、ラツィオよりも勝てる可能性は大きかったかもしれない。でもインテルは、いざ話をまとめようという時に、動きが鈍くて態度が煮え切らなかった。

ラツィオは、(サンプ時代に5シーズンを共に送った)エリクソン監督が誘ってくれたこともあったし、勝つための野心的なプロジェクトを持っていた。さっき言った通り、野心的なプロジェクトに弱いんでね」

――ジェノヴァで15年間過ごした後、キャリア最後の3年間をローマで過ごすことになりました。サンプドリアで王様のように過ごしてきたあなたが、ラツィオという新しい環境に馴染むのは、簡単なことじゃなかったように思えますが。
「ああ。実際馴染むまでには多少時間がかかったね。当初ラツィオの連中は、マンチーニももう32歳だし、どうせローマで優雅な年金生活でも送るつもりなんだろうと思っていた。

ところがこっちはフィジカル的にもまだまだいけてたし、経験も積んでフットボーラーとして最高の時期にあったからね。ローマとジェノヴァじゃ環境もメンタリティも随分違うし、最初は多少の摩擦もあった。でも最終的には、たくさんのタイトルを取って充実した3年間を送ることができた。いい選択をしたと思ってるよ」

――最後の2シーズンは、中盤でプレーしたり、左サイドでプレーしたりしました。特に引退のシーズンはベンチに座ることも多かった。
「確かにシーズンの最初の方は、あまり出る機会がなかった。でもスヴェン(ゴラン・エリクソン監督)もスクデットを勝ちたかったから、最後には僕を使わないわけにはいかなかった(笑)。

最後の6試合には全部出て、その6試合に全勝してラツィオはスクデットを勝ち取ったってわけ」

――どのように引退を決断したのでしょう?
「20年もプレーしてきて、ちょっと疲れていたんだ。肉体的にはまだ十分やれたけど、精神的に疲れてきていた。今振り返ると、あと1年続けていれば良かった、ヴァカンスに行って気持ちをリフレッシュするだけで良かったのに、とも思うけどね」

――早く止め過ぎたと後悔している?
「ある面ではね。でも、すぐにエリクソンの下で助監督になって、同じシーズンにフィオレンティーナで監督としてのキャリアをスタートすることができたから、いいタイミングで止めたともいえるわけで。今はあれでよかったと思ってるよ」

――じゃあ、DVDに収められたゴールを一緒に見ていきましょう。98-99シーズンのダービーでのゴールから。
「このダービー、試合開始6分で10人になったにもかかわらず、最後は3-1で勝ったんだ。これは2-1のゴールだ。ハーフウェイラインよりも手前からスタートを切って、パスを受けたそのままの勢いでゴール前まで持ち込んだ。中に切れ込んだ時のライン取りがポイントだね」

――次が、パルマ戦の有名なヒールキックです。
「これはゴールになったから騒がれたけど、ヒールキック自体は僕にとっては珍しいことじゃない。インサイドよりもヒールを使う方が多いプレーヤーだったからね(笑)。これは確かにきれいに決まったけど、ま、普通だな」

――キャリアの中でも一番美しいゴールのひとつだと言われてますけど。
「それはそうだけどね。でもこれ以外にも何度かヒールで決めてるし。これはCKからでボールも速かったし、ニアポストにフゼールが立っていたにもかかわらず届かないところに入ったから、運も良かった。

シニーサ(ミハイロヴィッチ)とは長いこと一緒にやってきて、ああいうボールを蹴ってくれるのは知っていたから、僕は合わせるだけでよかったんだ。そういう意味ではすごく難易度の高いゴールってわけじゃない。この次のボレーシュートの方が、ずっと難しいゴールだよ。これは間違いなくベスト3に入るね。サンプがスクデットを取ったシーズン、マラドーナのナポリとの試合だ。」

――長い距離を走り込んでそのまま右足でボレーを叩き込んだ。
「こういう後から来る長いクロスは、普通だったら一旦トラップするか、ボレーで合わせるにしても左で合わせるんだけど、僕はどうしてか右で蹴ろうと思ったんだ。時々こういう風に、わざと難しいことを試したくなるんだな。もちろんよく失敗もしたけれど、うまく行くとこういう風に素晴らしいゴールが生まれる」

――ヘディングでのゴールもあります(#20)。
「ヘディングは得意技ってわけじゃなかったけど、タイミングの感覚は良かったから、ニアポストに走り込んでけっこうゴールを決めたよ。これは違うけど、ミハイロヴィッチがほとんどのCKやFKを蹴っていて、どこにどういうボールが来るかはわかっていたから、それに合わせてニアから頭で“すらす”形でのゴールが多かった」

――フリーキックは珍しいですね(#15)。
「あまり蹴らなかったからね。ミハイロヴィッチが来てからは蹴りたくても蹴らせてもらえなくなったし」

――サンプ時代も含めて、ローマ戦のゴールが多く収録されていますが、偶然でしょうか。
「いや、オリンピコでのローマ戦では、いつもゴールを決めてたからね。なぜか知らないけどすごく相性が良かった。このゴール(#10)を決めた時には、アウェーにもかかわらずオリンピコ中の観衆から拍手をもらったんだ。あのスタジアムではいつも気分よくプレーできた。それでインテルじゃなくラツィオを選んだというわけじゃないけどね」

――ここに収められているゴールはボレーシュートがやたら多いんですが……。
「止めてから蹴るのは簡単過ぎてつまんないからね。それにボレーの方がフリーで打てる確率が高い。難しいけどちゃんと当たればゴールになりやすいだろ?」

――ボレーに限らず、マークを外してフリーで打っている場面が非常に多いですよね。
「僕はマークを外す動きが得意だった。今の若いストライカーはあまりうまくできないけどね。パスをもらってからドリブルで相手をかわすよりも、パスを受ける前の動きでフリーになる方が、ずっとシュートにつながる場面が作りやすいんだ」

――カウンターのゴールが多いのも、マークを外す動きがいいからですよね。
「僕は足も速かったんだ。カウンターというのは、傍目で見るほど簡単じゃない。特に単独で抜け出す場合は、ディフェンダーからタイミングを盗んでスタートを切り、飛んでくるパスの軌道とゴールの位置を読んだコース取りをしないと、DFを振り切ってGKと1対1になるところまで行かないからね」

――一番印象に残っているゴール、思い出深いゴールを教えて下さい。
「たくさん決めたから全部は覚えていないけど、パルマ戦とダービーでの2つのヒールキックは、こうやって見ると確かに華麗だね(笑)。最初の方で見たナポリでのゴール(G3)もそうだけど。

でもひとつ挙げるとすると、最後から2番目のアンコーナ戦のゴール(#2)かな。これはDFに引っ張られて転んで、明らかにPKになるファウルだったんだけど、そのままの体勢から右のアウトで合わせたんだ。あり得ないだろ?それに、ちょうどこの日、92年9月13日に次男のアンドレアが生まれたんだ。その意味でも記念すべきゴールだね」■

(2006年11月13日/初出:『サッカーベストシーン8 THE GOAL!』コスミック出版)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。