イタリアの新聞(スポーツ紙から一般紙まで)が、試合のたびに選手ひとりひとりに対してコメント付きで採点をつけることはよく知られている。その基本的な仕組みは、10点満点(0.5点刻み)で6点が及第点というもの。同じヨーロッパでも……
2004年10月に創刊されたサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』上で、創刊と同時に「カルチョおもてうら」という連載コラムを始めました。その後、2006年10月に同じ版元から海外サッカー専門週刊誌『footballista』が創刊されたので、そのままそっちに引っ越して連載を継続し、現時点で通算115回ほどに達しています。アーカイヴの1回目は、その12回目(2005年1月)に書いたこのテキスト。
イタリアの新聞(スポーツ紙から一般紙まで)が、試合のたびに選手ひとりひとりに対してコメント付きで採点をつけることはよく知られている。その基本的な仕組みは、10点満点(0.5点刻み)で6点が及第点というもの。同じヨーロッパでも、ドイツは5点制で点が少ないほうが評価が高いなどバリエーションがあるが、日本では当『エル・ゴラッソ』を含め、イタリア式の10点制がすっかりポピュラーになっているようだ。
しかしこの採点法、われわれ日本人が学校その他で親しんできた100点満点の感覚(及第点は70点くらいの感じか)からすると、どうもしっくりこないところがある。どうして6点が及第点なのか?9点や10点、2点や3点がほとんど見られないのはなぜなのか??どんな基準で評価をしているのか???読者の皆さんは、そんな疑問を持ったことはないだろうか。
実はこの10点制、単にサッカーの試合だけに使われている特殊な採点法ではなく、学校(小、中、高)の通信簿でも使われている、イタリア人にとってはごく一般的で、肌身に馴染んだといってもいい評価方法なのである。
日本の通信簿が一般的に相対評価主義であるのに対して、イタリアの通信簿は絶対評価が基本。その材料になるのは、100点満点の筆記テストではなく、教師と1対1で向かい合う口頭試問である。これは小学校から高校までずっと変わらない。
教師は生徒に課題を出してそれを説明させ、その内容からどれだけちゃんと理解しているかを判断して、評点をつける。一問一答のクイズ形式とは違うので、全問正解=満点という図式はあり得ない。
客観的な判断基準があるわけでもないので、評価には教師の主観も入ってくる。学習の達成度を厳密に数値化するというのではなく、ちゃんと説明できれば、それは十分理解しているということだからそれでOK、というけっこうアバウトな感覚だ。
そして、その評点において及第と落第の分かれ目になるのが「6点」なのだ。それに達しない場合にはいわゆる「赤点」になって追試や補習を受けなければなくなるから、6点に達するかどうかは、生徒にとって最大の死活問題ということになる。
新聞が掲載するサッカー選手や監督、審判の採点も、評価の感覚はおおむね同様と考えていい。5点ははっきり落第、5.5でも出来としては不満足、という感じになる。6点は文字通りの及第点で、可もなく不可もなし、というところ。6.5はまずまずOK、7点だとかなり上出来、8点になるとまったく文句なしである。
『ガゼッタ・デッロ・スポルト』には、採点はできる限り4点から8点の間に収めるようにという、暗黙の内規があるそうだが、学校の通信簿もその辺りは変わらない。10点満点がほとんどありえないのは、完全無欠の人間など存在しないのと同じ、と考えるといいかもしれない。筆者が最後に10点を見たのは、昨年5月のイタリア対スペイン戦翌日。これが代表フェアウェルマッチとなったロベルト・バッジョへのご祝儀だった。
通信簿ですらそうなのだから、新聞によって、あるいは記者によって採点や評価にバラツキがあるのは、当然といえば当然のこと。おまけにイタリアは、「横並び」という発想が非常に希薄な社会である。それ以前にそもそも、サッカーの試合やプレーに対する評価に、客観的で厳密な基準など設定できるはずもない。
相対評価ではなく絶対評価、客観ではなく主観が基準、というポイントさえ呑み込めば、採点への接し方も変わってくる。誰もが納得できる客観的な評価などは期待せず、むしろ視点や評価基準の個性や多様性を楽しむのが、採点への正しい接し方だろう。要するに、ネタだと思えばいいということだ。■
(2005年1月19日/初出:『エル・ゴラッソ』連載コラム「カルチョおもてうら」#12)