今夜行われる今シーズンのセリエA一番のビッグマッチ、ユヴェントス対ナポリにちなんで、昔『STAR Soccer』創刊号に書いたナポリ特集の中でまだ上げてなかったマラドーナゆかりの地訪問記を。最近はこういうタイプのテキストを書く機会がすっかりなくなってしまったので、たまには作らないと。

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「スペイン人地区にあるマラドーナの壁画?もちろん知ってるよ。当たり前だろ。だってあれ、俺たちが描いたんだからさ。もうだいぶ色褪せちまったけど、まだちゃんと残ってるよ。俺んちのすぐ近くだから、明日案内してやるよ。危なくないかって?俺も“クァルティエーリ”の人間だから大丈夫だって」

クァルティエーリ・スパニョーリ、すなわちスペイン人地区と呼ばれる一帯は、ナポリでも一番危険なゾーンとして、たとえ昼間であっても決して足を踏み入れてはいけないと、あらゆる観光案内に明記されている。ナポリ空港で拾ったタクシーの運転手は、悪名高きその界隈で生まれ育ったことをまったく屈託なく明かし、目的地であるホテルに車をつけるとこう言った。

「あ、メーター入れなかったけど、空港から街中までは統一料金だから。それが16ユーロ、今日は日曜だから休日料金で2ユーロ、荷物が1個で1ユーロ50、コーヒー代入れて、〆て20ユーロ。いや、支払いは明日でいいよ。また会うだろ?何時に迎えに来ればいい?」

乗った時にメーターのスイッチを入れたか確認したつもりだったのに、あれはブラフだったのか……。ったく、ナポリではいつもこうやってタクシーにボラれるのだ。1ユーロや2ユーロのために口論するのも疲れるので、観念して20ユーロ払いタクシーを降りる。

「グラツィエ(ありがとう)。俺はエンツォ。いつでも電話してくれよ」

調子のいい野郎だ。領収書をもらうついでに、念のため携帯電話の番号を聞いた。どっちにしろ、スペイン人地区に入るには案内役が必要なのだ。それに、このエンツォ、不思議と好感が持てる。

ローマから列車でやってきたカメラマンの高橋在さんも、駅からのタクシーにボラれそうになり、ひと口論したという。7ユーロで済むところを15ユーロふっかけられたそうだ。ナポリへようこそ。

翌日、エンツォに電話をかけて、マラドーナゆかりの場所を案内してくれるよう頼んでみる。「それなら任せてくれよ。若い頃は追っかけみたいなもんだったからね。ディエゴが住んでた家にも行ってみるかい?」。望むところだ。

最初に向かったのはスペイン人地区。ナポリの街を南北に走るメインストリート、トレド通りの西側に広がる斜面に、狭い路地が縦横に張り巡らされ、6-7階建ての薄汚れた中層集合住宅が軒をくっつけ合うように立ち並んでいる。一方通行を平気で逆走してくるスクーターを巧みにかわしつつ、じめじめした狭い路地を上り、深いところに入って行くにつれて、街並みは煤けて荒涼としてくる。

「ほら、ここだよ」。着いたところは、窓ガラスの割れた車が放置され、ゴミが散乱する小さな駐車場だった。建物の壁一杯に描かれた身の丈4mはあろうかというマラドーナはしかし、すっかり色褪せて今にも消えてしまいそうだ。おまけに、その顔の部分は、壁面に新たに穿たれた窓によって潰されてしまっている。

「2回目のスクデットの時に、街の仲間とみんなで描いたんだ。朝から始めてまる1日かかったよ。俺は20才で、香水屋の店員だったんだけど、スクデットの後は3日ぐらい、店にもいかないでお祭り騒ぎ。この街の路地が、全部青一色になったんだぜ。どの家の窓からも、思い思いの横断幕や旗や青いテープが張られてさ。あれは壮観だったね」

当時のお祭り騒ぎは写真やTVで見たことがある。でもそれから15年が過ぎた今、この街の朽ち果てたような風景から、それを想像することは難しい。大体、ディエゴの顔を潰して窓を開けるなんて、誰も文句を言わなかったのだろうか。「ああ、誰も何も言えなかったんだ。あの家はこの辺りのボスとマブダチで…」

“クァルティエーリ”は、ナポリのマフィアであるカモッラの活動が最も盛んな地区のひとつだ。3つのファミリーがそれぞれのブロックを支配し、抗争を繰り広げている。対立するボスを狙って刺客が放たれることも珍しくない。

「でも、ディエゴの思い出までが朽ち果てたわけじゃない。俺、今でもよくビデオやDVDを見てるからね。何回見ても全然飽きないんだ。そのたびにあの頃の興奮が戻ってくる。一瞬だけだけどさ」

エンツォが、ちょっとコーヒーをひっかけよう(ナポリの濃厚なエスプレッソには「ひっかける」という表現が一番似合う)というので、近所のバールに向かう。無邪気な顔をした若いバリスタは、聞けばばりばりのウルトラス(ゴール裏の過激派サポ)で、ナポリのホームゲームはもちろん、アウェーにも必ず遠征するという。

「相手のウルトラスと戦ったりするわけ?」「ははは、そうだね。でも最近はおまわりのクソ野郎どもとやる方が多い」

所属するグループ名は“テステ・マッテ”という。英語にすればクレイジー・ヘッズ。“クァルティエーリ”を拠点にする、ナポリサポで最も過激なグループのひとつで、ゴール裏での武闘派活動だけでなく、カモッラの別動隊として麻薬の売買などにも手を染めているという噂もある。「ほら、これ見ろよ」と携帯電話を開いて、マラドーナの「6人抜き」の動画を嬉しそうに見せてくれる子供みたいな表情からは、とてもそんな仲間には見えないのだが。

「俺、ディエゴを生で見たことは一度もないんだ。まだほんのガキだったから。でも優勝した時のことはよく覚えてるよ。兄貴の車にハコ乗りさせてもらって、旗を振りながら街中走り回ったんだぜ」

“クァルティエーリ”の路地を抜けて、今度は当時のナポリの練習場があるソッカーヴォ地区に向かう。無表情な低所得者向けの集合住宅が並ぶ、典型的な郊外住宅地だ。チェントロ・スポルティーヴォ・パラディーソ、すなわち天国スポーツセンターと名付けられた施設は、2004年のSSCナポリ倒産とともに閉鎖され、今は使われていない。

青く塗られて錆びつこうとしている鉄の門にはFORZA NAPOLIとスプレー缶で大書されているが、ここにナポリが戻ってくることはもうないだろう。門の前の道路には人っ子一人いない。野良犬はいたけれど。

「当時はここに毎日何百人も集まって、ディエゴが出てくるのを待ってたんだ。俺もしょっちゅう来てた。歩いて1時間以上かかったけど、全然へっちゃらだったよ。練習を見られるわけじゃないけど、ディエゴの顔がちょっと見られるだけで嬉しかったんだ。俺たちにとっては神様みたいなもんだったからさ」

そりゃ、神様がいたんだから天国だったわけだよな、と妙に納得する。次の目的地は、スタディオ・サン・パオロ。マラドーナのナポリが様々な伝説を刻んだ、そして90年のワールドカップでマラドーナのアルゼンチンが開催国イタリアをPK戦で破った、因縁の舞台だ。イタリア90のために改装されてから15年あまり、当時は最先端だったこのスタジアムも、大分さびれて味が出てきた。

「エンツォ、あの試合でイタリアとアルゼンチン、どっちを応援した?」
「もちろんディエゴに決まってるさ!」
「イタリア人なのにアルゼンチンを応援したのか?」
「いや、ディエゴを応援したんだよ。みんなそうだったよ。ナポリにとって一番大事なのはディエゴだから、当然だった。確かに俺たちはイタリア人だけど、その前にナポレターニだもん。ディエゴが戦う相手を応援するなんて不可能だよ」
「……」

マラドーナが住んでいたという家は、ナポリ湾に面した高台の高級住宅地ポジッリポの、そのまた一等地にあった。眼下にナポリ湾が一望できる邸宅である。

「家の前にはいつも人が集まってて、ディエゴが帰ってくるのを待ってたよ。夜になればなったで、散歩代わりに車で乗りつけてくるんだ。夜になってディエゴが帰ってくると、家に電気がついた瞬間にみんながおお〜って声を上げたもんだよ。でもディエゴが出かけるのは、大体いつも夜が更けてからだったな。それで朝まで帰ってこないんだ」

でももちろん、ナポリの人々にとって、そんなことはどうでもよかった。日曜日になればスタジアムでマジカルなプレーを見せ、ナポリを勝利に導いてくれることがわかっていたからだ。

ナポリから神のように崇められ、無条件で愛されていたマラドーナが突然この地を去ったのは、1991年4月1日のことだった。ドーピング検査でコカインが検出され、15ヶ月間の出場停止処分が下って、逃げるようにブエノスアイレス行きの飛行機に飛び乗ったのだ。

ナポリの人々は、マラドーナに裏切られたとは考えなかった。コカインの検出は、ワールドカップでイタリアを敗退させたディエゴに対する、当時のサッカー協会会長マタレーゼの復讐だと考えたのだ。「だって、ディエゴがコカインをやってるなんて、ずっと前からみんな知ってたじゃないか」。

しかし、それから14年以上、マラドーナは時にイタリアに来ることがあっても、決してナポリの地に足を踏み入れることはなかった。

ローマ建国以前から存在した古代都市ナポリの中心で、現在は風情を残す下町として観光客に人気のスパッカナポリ。その中ほどに位置する老舗のバールの壁には、聖母マリアの代わりに聖ディエゴ・アルマンドを祀った手作りの祠がしつらえられている。

2つのスクデットと2つのカップに縁取られた祠の中には、若き日の聖人の写真とともに、その聖遺物として髪の毛が一本、小さなガラスの器に収められている。そして小さな額には、ナポリの守護聖人・聖ジェンナーロにマラドーナの命を救ってほしいと願う祈りの言葉が、ナポリ方言で記されている。2年前に危篤に陥った時に捧げられたものに違いない。

聖ジェンナーロさま。
俺はここで生まれ育った、この街の息子です。
今まで人生辛いことばっかりでした。これからもたぶん変わらない。
でも、ここではみんなそうやって生きてる。だから今日もまた腕まくりして、文句を言わずに働きます。しんどいけど、食って行かなきゃならないから、何も考えずに働くんです。
でも、聖ジェンナーロさま。頼むからひとつだけ願い事を聞いて下さい。
いや俺のことじゃない。俺はこれで十分です。俺たちの兄弟が苦しんでいるんです。
奴は遠くからやってきて、この街の息子になった。俺と同じで、最初は何も持ってなかった。でもここに来て、たくさんの人々から愛された。そして、神様が与えてくれた天賦の才で、この街とここで生きるみんなを、世界で一番幸せにしてくれた。
だから今俺たちは胸に手を当てて、たったひとつだけ願いごとをします。
奴の人生最後の試合、命を懸けた戦いに勝てるように、助けてやってほしいんだ。
聖ジェンナーロさま、あなたの息子である俺たちの願いを叶えてくれよ。涙の中でもう一度こう叫びたいんだ。ディエゴ、お前は俺たちとひとつだ、って。

聖ジェンナーロがナポリの願いを聞き届けてくれたのだろう、マラドーナは死の淵から奇跡的に這い上がった。そして昨年6月9日、サン・パオロで行われた元ナポリDFフェラーラの引退試合に合わせてナポリを訪れ、スタジアムを埋めた8万人の観衆とついに再会を果たす。

21年前、初めてマラドーナがサン・パオロに顔見せした時には、何時間もスタンドでそれを待ち続けたエンツォは、しかしこの日、スタジアムに行かなかった。

「仕事があるから無理だったんだ。俺も今じゃ2人の子供がいる。一番の宝物である子供たちのために、少しでも多く働かなきゃと思うんだよ。でも、実は仕事の合間にちょっとだけ、ディエゴが泊まってたホテルの前まで行ってみたんだ。もうすごい人だかりで、ディエゴが出てきたわけでもなかったけど、胸がどきどきする気持ちは昔と同じだったよ」□

(2007年3月10日/初出:『STAR Soccer』

By Michio Katano

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。