1998年にゼーマン監督が告発したユヴェントスのドーピング疑惑についての顛末をまとめたテキスト。ドーピングに関しては、陸上競技、水泳、自転車といった個人競技が厳しい規制と監視の目にさらされているのと比べると、サッカーは相対的に緩い印象があります。とはいえドーピングコントロールに引っかからない範囲でパフォーマンスを高めるためにいろいろな努力をしていて、時にはそれが行き過ぎになる可能性もあるというのは、当時も今も変わらないのではないかと思います。
「カルチョの世界は薬剤師たちに支配されている」。
当時ローマの監督だったズデネク・ゼーマンが週刊誌『レスプレッソ』のインタビューでこう語ったのは、1998年8月のことだった。
記事のタイトルは「カルチョにもツールと同じ危険が潜んでいる」。前月行われたツール・ド・フランスで大規模なドーピングスキャンダルが発覚したのを受け、自転車レースの世界だけでなくプロサッカー界にも「薬の力」に頼ってパフォーマンスを上げようという風潮が蔓延しつつあることを告発したこのインタビューは、カルチョの世界のみならずイタリアスポーツ界全体に大きな波紋を巻き起こした。
このインタビューにおけるゼーマンの発言でとりわけ反響を呼んだのは次のような部分だった。
「自転車レースだけでなくサッカーの世界でも、パフォーマンスの不足を薬物で補完しようとする傾向が強まっている。まだ大きなスキャンダルは起こっていないが、セリエAの多くのクラブが薬剤師たちの力を借りているのを知っている。カンピオナートがツール・ド・フランスのようになるのを避けなければならない」
「私は薬学者ではないのである種の薬物にどんな効果や影響があるのか言うことはできない。しかし問題はそこではない。薬物が必要なのは病気を治すためであり、健康なスポーツマンがそれを必要とするのはおかしいということだ。どうして協会はこうした疑問を取り上げようとしないのか」
「ジャンルカ・ヴィアッリやアレッサンドロ・デル・ピエーロの体形が短期間にあれだけ変わったのは不自然だ。私は色々なスポーツを経験してきて、ある種の結果は何年もかけたボディビルディングによってしか得られないことを知っている。サッカーはそれとはまったく種類の異なるスポーツだ」
この“告発”を受ける形で最初に動き出したのは、イタリアのスポーツ統括団体であるイタリアオリンピック協会(CONI)。ゼーマンが口にした“疑問”に答える形でイタリアサッカー協会(FIGC)を対象とする内部調査に着手した。この調査は約1ヶ月後、「サッカー界にドーピングの事実は認められない」という結論を出して終了、問題はこれで一応の結末を見たかのように思われた。
しかしこの後、問題は別の方向に向かって発展して行くことになる。ヴィアッリ、デル・ピエーロという2選手がゼーマンに名指しされたユヴェントスが本拠を置くトリノの検察局が、ドーピング(禁止薬物の使用)だけでなく薬事法違反(治療目的以外での薬物使用)による摘発までも射程に入れて、本格的な捜査に乗り出したからだ。
担当検事は、ゼーマン、デル・ピエーロ、ヴィアッリを初め、多くの監督、選手、チームドクター、ドーピング検査を担当するCONIの職員などに幅広く事情聴取を行う。そしてその結果、様々な「疑惑」が浮かび上がってきた。
その中で最も重大だったのは、スポーツ競技のドーピング検査を一括して行っているローマのCONIドーピング検査センターから、過去10数年分に渡る検査結果資料がサッカーの分だけごっそり消えてしまったという事実だった。
すでに見たようにCONIはその直前に内部調査を行って「ドーピングの事実は認められない」という結論を出しているが、その前後に悪質な証拠隠滅行為が行われたと疑われても仕方のない事態だった。当時のCONI会長マリオ・ペスカンテはその責任を取る形で辞任に追い込まれ、検査センターも閉鎖されることになる。
捜査の過程では、当時(90年代半ば~後半)のドーピング検査がきわめてずさんな内容であったという証言や、いくつかの試合で陽性反応が出たにも関わらずそれが隠ぺいされたといった証言も得られたが、それを立証するための証拠が存在しないという理由で立件されることはなかった。
そうした事情もあって、捜査当局が立件のターゲットとしたのが、ユヴェントスのメディカル部門だった。焦点となったのは、捜査の過程で検察がユヴェントスの練習場を家宅捜索した際、計241種類にも及ぶ薬が発見・押収されたこと。
「薬局の倉庫よりも充実している」「このまま小さな病院が開ける」とまで言われたこの“コレクション”には、40種類もの抗うつ剤のほか、心筋症治療薬、消炎鎮痛剤、局部麻酔剤、コーチゾン(副腎皮質ホルモン)製剤など、医師の処方なしでは薬局が販売できない薬が大量に含まれていた。これらはすべて禁止薬物リストには載っていない「合法的な」薬品だったが、問題になったのはその使用法である。
例えばSamyrという名前の抗うつ剤。裁判に証人として出廷したラヴァネッリ、ジダンなど複数の元所属選手の証言により、「ビタミン剤」だと偽って、試合開始2~3時間前に静脈注射で投与されたことが明らかになっている。本来の目的であるうつ病治療ではなく、疲労感の軽減と意気高揚(要するに興奮剤の代用)のために使われていたのだ。
その他の薬に関しても、本来の治療目的ではなく「疲労からの回復」、「試合に臨む上での不安の解消」、「持久力強化」(いずれも選手の証言から)といった、本来とは異なる目的で使われた疑いが強く、量的にも、本来の適正用量を大きく上回って投与された事例が捜査の中で明らかになった。
着手後3年の時間を費やして捜査を進めたトリノ検察は、2002年1月にユヴェントスのチームドクターであるリッカルド・アグリコラ医師、代表取締役のアントニオ・ジラウド(役職はいずれも当時)を、「スポーツにおける詐欺罪(ドーピング行為)」と「健康に危害を及ぼす投薬行為(薬事法違反)」の疑いで立件・起訴。それから2007年まで足かけ5年間に渡り、一審、二審、そして上告審と三度に渡る裁判が争われることになった。
2004年の一審判決は、アグリコラ医師に対し「薬物を利用して選手のパフォーマンスを不当に高め、試合の結果を自らに有利なものに導こうとした」(スポーツにおける詐欺罪)、「専門医の処方なしに薬を入手し、選手に投与した」(薬事法違反)という2つの罪状を認めて禁固1年10ヶ月、罰金2000ユーロの実刑判決を下す一方で、ジラウドに対しては上の行為に直接関与したという証拠が不十分であるとして無罪とするものだった。
しかし2005年に出された二審判決では、薬物の過剰な使用を事実として認めながら、「スポーツに蹴る詐欺罪はこの行為を範囲に含めることを前提としていない」という法解釈上の理由で両者ともに無罪とされる。
これに納得しない検察側は最高裁に上告、2007年3月に下されたその最終判決は、両者を無罪とする二審判決を破棄し、「違法行為があった」として両者の責任を認めながらも、裁判の対象となっている1994年から98年までの事実に関しては、8年間の時効が過ぎているとして「訴追不可能」(無罪ではない)だとして裁判そのものを打ち切りにするものだった。
ゼーマンの告発から足かけ9年に渡って争われたこの「ユヴェントスドーピング裁判」、その決着は後味の悪い曖昧な形で終わったとはいえ、禁止リストに載っていない薬物に関しても、治療という本来の目的ではなくパフォーマンス向上のために使用する場合は、広義のドーピングにあたるという検察側の判断を認め、90年代にはユヴェントスに限らず広く横行していたと推定される過剰な薬物使用に歯止めをかけたことには、大きな意義があったと言えるだろう。
禁止薬物の使用という「狭義のドーピング」に関して言えば、陸上競技、水泳、自転車レースといった個人競技と比較すると、サッカーの世界でそれが問題になることは当時も今も多くはない。しかし、ドーピング検査で陽性反応が出て出場停止処分を受けるという事例は、年に何件かの頻度で常に起こり続けている。
これまで出場停止処分を受けた選手のリストには、グアルディオラ、ダーヴィッツ、スタム、コウト、F.デブールといったワールドクラスも含まれている。彼らの陽性反応はいずれも、ナンドロロン(蛋白同化ステロイド)という筋肉増強作用を持つ成分によるものだったが、この物質は体内でも生成され得るもので、禁止薬物リストに載っていないサプリメントの摂取によっても検査での測定値が上がる可能性があるとされる。そのため、ドーピング行為(禁止薬物の摂取)があったかどうかを特定することは事実上不可能だったが、通常の食生活を行っていれば検出される可能性がきわめて低い物質であることもまた事実である。
こうした「狭義のドーピング」を巡る諸問題については、また機会を改めて掘り下げることとしたい。□
(2011年1月17日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)