年の瀬なので読み物系をアップして行こうかと思います。今回はWSDの不定期連載「悪童列伝」に書いたアントニオ・カッサーノのバイオグラフィ。この後さらに3年が過ぎ、カッサーノはインテル、パルマ(そして半年間のブランク)を経てサンプドリアに復帰、やっとコンディションを取り戻して少しずつ出場機会を手に入れ、散発的にそのタレント(の残滓)を見せ始めています。もはや衰えは隠せませんが、時々見せる一瞬の輝きにはまだ胸躍るものがあります。しかしこうやってふり返ってみると昔はほんとどうしようもない野郎だったんですね。
悪童、というと、この顔を真っ先に思い浮かべる人は少なくないだろう。
アントニオ・カッサーノ。誰もが天才と讚える超ワールドクラスの才能を持ちながら、その破天荒な性格と無軌道な振る舞いが災いして、そのタレントを全面的に開花させることなくトラブルメーカーとしてキャリア最初の10年を費やした男。
しかし、結婚、長男の誕生、そして心臓疾患による生命の危機という経験を経て30歳を迎えた今、悪童のレッテルはやっと過去のものになった。とはいうものの、これまでの悪童ぶりが語り継ぐに値する伝説的なものであったことに変わりはない。
カッサーノの人生をあらゆる意味で規定してきたのは、南イタリアの都市バーリの貧民街「バーリ・ヴェッキア」で私生児として生まれ育ったというその生い立ちである。
学校にはろくに行かず、通信簿の評価は全科目10段階評価の2(サッカーの採点と同じで及第点は6)。小学校と中学校、合わせて計4回も落第し(イタリアには義務教育にも落第がある)、17歳で中卒の資格を取ったのは「夜間中学校が免状をプレゼントしてくれたから」でしかなかった。
かと言って貧しい家の子供たちがそうするように働いて家計を助けることもせず、ただ街の広場で朝から晩までボールを蹴り、遊び暮らしていた。
「働く気なんかこれっぽっちもなかった。もしサッカーの才能がなかったら、俺は間違いなく犯罪者になっていただろう。働かずに生きて行くためには盗むしかない。ひったくりか強盗か、そういう類いだ」(2008年刊行の自伝より。以下同じ)。
そんなカッサーノを救ったのはその特別なタレントだった。7歳で地元のユースクラブ「プロ・インテル」でプレーを始め、12歳でバーリの育成部門に入る。14歳の時にはもうトップチームの練習に加わり、大人の選手をドリブルで抜き去ってはからかい、本気で起こらせて追い掛け回されていた。
紅白戦でDF全員とGKを抜き去った末、シュートを決めずにボールを拾い上げて「こんなヘタクソたちと一緒にやってらんねーよ」と言ってのけ、そのままロッカールームに引き上げたことすらある。
そんな傍若無人な振る舞いにもかかわらずチームを追われなかったのは、カッサーノの才能を全面的に信じて父親のように彼を守り続けたエウジェニオ・ファシェッティ監督(当時)のおかげだった。
カッサーノの運命を決めたのは、そのファシェッティの下でセリエAにデビューして間もない1999年12月18日に行われたバーリ対インテル(2-1)での決勝ゴール。
左サイドから裏に抜け出し、自陣からのロングフィードをヒールでコントロールすると、そのままドリブルでローラン・ブランを置き去りにし、クリスティアン・パヌッチもかわしてニアポスト際に正確なシュートを流し込んだ。その後何百回と繰り返しTVで流されることになるこのゴールで、それまでバーリのローカルヒーローでしかなかったカッサーノは、一気に全国区のビッグスターになる。
ビッグクラブによる争奪戦の末、ローマに移籍したのは2001年夏。最もいい条件を提示したのはユヴェントスだったが、トリノはバーリから遠すぎる上に、冬に洗濯物を外に出すと凍ってしまうほど寒いという話を聞いた母親が反対、さらにカッサーノ自身がフランチェスコ・トッティとのプレーを強く望んでいたこともあって、当時イタリアサッカー界で権勢を誇っていたユーヴェのルチャーノ・モッジGDとのアポイントメントをカッサーノが一方的にすっぽかすという形で移籍話が破談になった。
19歳で移籍したローマでは、ピッチ上でも私生活でもフランチェスコ・トッティとペアを組んだ。ピッチ上では当初、バティストゥータ、モンテッラという強力なストライカーがいたこともあり、レギュラー定着を果たしたのは3年目の03-04シーズン(33試合14得点)から。
しかしピッチの外では最初の2年間、まだ結婚していなかったトッティとつるんで昼夜を問わず遊び歩いていた。「ローマ、ナポリ、ミラノ。パーティがあればどこにでも行った。ローマからミラノまで、時速230kmで車を飛ばせば3時間で着く。それなりの車を持っていれば、朝方まで遊んでも練習には間に合う」。
カペッロ監督の下でプレーした最初の3シーズンは、練習中の小さなトラブル(と夜遊び)には事欠かなかったものの、決定的に深刻な問題は起こさなかった。カペッロがカッサーノの問題行動を指して「カッサナータ」という言葉を初めて使ったのは2年目(02-03)の秋、出場機会の少なさに腹を立てて練習を無断で休み、謹慎を言い渡された時のこと。その後もカペッロとの間には小さなトラブルが続いたが、2人の間には愛憎相半ばする親子のような関係が成り立っており、破局に至ることはなかった。
それが変わったのは、カペッロがユヴェントスに去り、トッティとの友情が壊れ始めてチーム内で孤立し、トッティを神格化しているゴール裏からも攻撃を受け始めた4年目(04-05)のことだ。
ユーロ2004で活躍したカッサーノは、ヴァカンス明けのキャンプ参加を1週間引き伸ばした上、最初の練習試合で新監督のプランデッリと大口論。試合中にユニフォームを脱ぎ地面に叩きつけてピッチを去った。プランデッリはその10日後、夫人の重病を理由に辞任することになるが、本当の理由はカッサーノにあったという話が専らだった。
続いて就任したルディ・フェラーに対しても、スタメン落ちを通告された直後、脱いだユニフォームを今度は顔に投げつけて戦力外扱いとなる。そのフェラーも1ヶ月足らずで辞任、後任のルイジ・デルネーリとも就任1試合目のハーフタイムに口論、やはり脱いだユニフォームを顔に投げつけると、後半のプレーを拒否してそのままシャワーを浴び家に帰るという振る舞いを見せる。
このシーズン、ローマがセリエB降格の危機に瀕したとすれば、その責任の大半はカッサーノにあると言っても過言ではなかった。
続く05-06シーズン、監督に就任したルチャーノ・スパレッティも早々にカッサーノに愛想を尽かし、クラブに対して放出を要求する。2006年1月にレアル・マドリーに移籍したが、05-06後半は太り過ぎによるコンディション不良で、カペッロが監督に就任した06-07にはその指揮官との対立で、まともな活躍ができないまま、2007年夏にはサンプドリアにレンタル移籍することになった。
そのサンプで、ワルテル・マッザーリ監督の下、プレッシャーのない環境で「王様」として扱われることで徐々に本来のプレーを取り戻し、私生活でもジェノヴァのセミプロチームでプレーする17歳(当時)の水球選手カロリーナ・マルチャリスという伴侶を見つけたことで人間的に成長、トラブルメーカーというレッテルを返上する一歩手前までこぎつけた。
しかし、08-09には審判の判定に激昂して脱いだユニフォームを投げつけ(これがお決まりのパターンだ)長期出場停止、09-10にはデル・ネーリ監督との対立から1ヶ月に渡って戦力外扱いを受けるなど、定期的な「カッサナータ」の暴発を抑えることはできなかった。
そして2010年11月には、父親のように愛情を注いできたリッカルド・ガッローネ会長を練習場のロッカールームで侮辱して怒りを買い、契約解除という形で復活の舞台だったサンプドリアに別れを告げることになる。
そのカッサーノに助けの手を差し伸べたのは、悪童の扱いには定評があるミランだった。「これが最後のチャンスだと自覚している。これをしくじったら矯正施設行きだ」という入団会見での言葉通り、ベンチに置かれても文句を言うことなくミランというファミリーの一員として振る舞い、そのタレントを存分に発揮している。
昨年11月には、ローマへの遠征から空路戻った空港で虚血性脳卒中に襲われて病院に運ばれ、診察の結果、先天性心房中隔欠損症という疾患が判明、手術を受けた結果4ヶ月に渡ってピッチを離れるという出来事もあった。復帰したのは4月初めのミラン対フィオレンティーナ。「ピッチに立った時は両足が震えていた。セリエAにデビューした時でさえそんなことはなかった。自分は本当に生き返ったんだという気持ちだった。あれほど幸せな気持ちになったことは一度もないよ」。
その後、EURO2012での活躍はまだ記憶に新しい。17歳の時に見せたポテンシャルを考えれば、30歳のカッサーノはそれを全面的に開花させたとはいえないかもしれない。しかしそれでも、独力で決定的な違いを作り出す偉大なファンタジスタであることに変わりはない。□