イタリアのビッグクラブはマスコミをどうコントロールしている(しようとしている)かというお話。これを書いたのは今から6年半前ですが、ミランの売却話は当時からすでに噂に上っていたのでした。ちなみに、中に出てくる『コリエーレ・デッラ・セーラ』のご意見番アルベルト・コスタさんは、定年退職した後、大物代理人ジョヴァンニ・ブランキーニのエージェントの広報担当になって、顧客であるモントリーヴォやポーリについてネガティブな記事を書いたり低い採点をつけたりしたミランの番記者たちにプレッシャーをかけるお仕事をしておられるようです。この変わり身の早さもまたイタリアです。

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「あなた方のやっていることは知的売春だ」。
ジョゼ・モウリーニョは、今年3月、毎週の定例記者会見に集まった記者たちに向かってこう言い放った。

その背景にあったのは、マスコミがインテルについてのネガティブな話題ばかりをことさらに大きく取り上げ、その一方でミランやユヴェントスについては、いつも甘い書き方をすることに対する苛立ちである。

「売春」という強い表現は、ジャーナリストとしてあるべき公正中立の立場を貫かず、権力におもねるようにして仕事をしているその姿勢に向けられたものだ。

ミランのオーナーであるシルヴィオ・ベルルスコーニは、イタリアの民放三大ネットワークを独占するTV局『メディアセット』を所有する上に、イタリア共和国首相として国営放送局RAIに対しても影響力を行使できる立場にある。

ユヴェントスのオーナーでありイタリア最大の自動車メーカー・フィアットグループを所有するアニエッリ家は、販売部数第3位の全国紙『ラ・スタンパ』を所有するだけでなく、全国紙第1位の『コリエーレ・デッラ・セーラ』とスポーツ紙第1位の『ガゼッタ・デッロ・スポルト』を発行するRCSグループの大株主でもある。

ビッグクラブの中ではインテルだけが、大手マスコミとの資本関係を持っておらず、それゆえマスコミ対策上大きなハンディキャップを負っている、というのは、イタリアでは以前からしばしば言われていることだ。

イタリアにおけるメディアコントロールは、クラブやチームへの批判的な論調を抑えポジティブなそれを助長するための、言ってみれば「論調操作」として行われる側面が強い。とりわけ嫌われるのは、会長を初めとする首脳陣に対する批判である。チームの不振や失敗の責任が彼らにあるという論調が広まると、ウルトラスの抗議など実力行使の標的になることも少なくないため、クラブの首脳たちは、報道に対して非常に敏感になっている。

かつて、カルチョポリで摘発される前のユヴェントスでは、批判的な記事を書く番記者を出入り禁止にしたことが一度ならずあった。ミランも、特定の媒体を記者会見から締め出したことがある。逆に、メディアセットや『ガゼッタ』が、ベルルスコーニやアドリアーノ・ガッリアーニ副会長を槍玉に挙げたり、ミランに都合の悪いニュースを大きく取り上げることは皆無と言っていい。

最近のミランをめぐる論調を例に取ろう。

カカのレアル・マドリードへの売却は、ミランにとってきわめて重大な事件だった。選手のロイヤリティを何よりも重視し、「金のために選手を売ることは決してしない」と明言してきたクラブが、その正反対のことをやったのだ。この出来事はおそらく、ここ8年ほど続いてきたミランの幸福な歴史にピリオドを打つ、ひとつの分水嶺となるだろう。

ミランの言い分は、6800万ユーロという赤字を埋めるためには売却も止むを得なかった、というものだ。だが、ミランの経営はこれまでもずっと赤字体質だった。にもかかわらず、これまで「金のために選手は売らない」と言い続けて来れたのは、その赤字をオーナーであるベルルスコーニが穴埋めしてきたからだ。カカを売ったということは、ベルルスコーニがその穴埋めを止めたことを意味する。

もし、同じように私財を投じて毎年巨額の赤字補填を続けているインテルのマッシモ・モラッティ会長がそれを止めたら、間違いなく「モラッティはインテルへの愛情を失った」といった類いの見出しが躍るに違いない。しかし、今回に関してはまったくそういった報道は見当たらない。カカ放出に関して、はっきりとミラン首脳陣を批判する記事を書いたのも、“ご意見番”として誰からも一目置かれている『コリエーレ・デッラ・セーラ』のベテラン番記者アルベルト・コスタただ1人だった。

さらにいえば、ミラノの記者たちの間では、赤字補填を止めたのは、クラブの財務体質を改善して負債を消し「きれいな身体」にするためであり、それは近い将来ベルルスコーニがクラブを手放すための布石だ、という憶測までが公然と囁かれている。しかし、「ベルルスコーニ、2年後にミランを売却か」という見出しは、まだどこにも出てこない。

とはいえ、これが監督人事や移籍マーケットにかかわる報道となると、ちょっと話が違ってくる。

こうしたテーマについては、メディア側は所属クラブだけでなく選手、代理人、そして獲得を狙っているクラブと、それぞれの利害が相反するニュースソースから情報が得られる上に、その情報の真偽に関わらず読者が喜びそうな話はどんどん見出しにしてでっち上げてしまうのが常態になっていることもあり、クラブが完全にコントロールするのはきわめて難しいように見える。

もちろんクラブは、自分たちに有利な情報操作を試みている。しかし、代理人や他のクラブもそれに反する情報をリークするし、そっちの方がネタになることも少なくないので、結局メディアは何が一番売れそうか、という基準に立って見出しを選ぶしかない。

いくらメディアセットのスポーツニュースが「カカの移籍は決まったわけではない」というベルルスコーニのコメントを繰り返し流したところで、『マルカ』や『AS』が「移籍金6700万ユーロで合意」と報じてしまえば、『ガゼッタ』を初めとするイタリアメディアもそれを後追い報道する以外にはない。

クラブはマスコミの論調をコントロールしようと圧力をかけ、マスコミもそれを受け入れつつ、その許容範囲内でできるだけセンセーショナルな報道をしようと試みる。メディアコントロールというのは、クラブとマスコミのパワーゲームだと考えるのが一番わかりやすいかもしれない。

マスコミの側のスタンスも、「真実を報道する」というジャーナリスティックな使命感だけで貫かれているわけでは決してない。そういう使命感はタテマエとしてはあるけれど、現実にはそれを心の隅に留めつつ、良心の呵責もちょっぴり感じつつ、本当でも嘘でも読者の喜ぶことを書いて少しでも多くの部数を売り、視聴率を稼ぐことを最大の目的として日々の仕事にいそしんでいる、というのが実情だろう。

その意味でスポーツマスコミとは、ジャーナリズムである以上にエンターテインメントであると言うこともできる。というか、そういう側面を持っていることを彼ら自身が自覚している。

読み手の側も、それを頭に入れつつ、報道の真偽を問題にするよりもむしろ、その背景に何があるのかを想像しながらリテラシーを働かせて読み、楽しむのが正しい接し方だろう。真実は行間にしか存在しない。■

(2009年6月13日/初出:『footballista』)

By Michio Katano

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。