ダービー(2014.11.23)に向けて、引き続きミラノ関連を。2007年、クラブワールドカップでミランが来日した時に出たムックに寄せた、ベルルスコーニ会長とガッリアーニ副会長のストーリーを振り返るテキスト。成り行き上ちょっと持ち上げてありますw

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ベルルスコーニ:カルチョに革命をもたらした男

ミランの会長シルヴィオ・ベルルスコーニは、プロサッカークラブのオーナーとして、世界で最も多くのトロフィを獲得した男である。

1986年2月にミランの経営権を買い取り会長に就任して以来、21年間に勝ち取ったタイトルは、スクデット6回、チャンピオンズリーグ5回、インターコンチネンタルカップ2回、UEFAスーパーカップ5回、イタリアスーパーカップ5回、コッパ・イタリア1回と、計25にも及ぶ。

1936年、ミラノ郊外の住宅地に銀行員の息子として生まれたベルルスコーニは、大学卒業後、実業家を志して小さな建設会社を設立、ここからすべてが始まった。この会社エディルノルドを、10数年間でミラノ有数の不動産開発会社に発展させると(その過程でマフィアから資金の提供を受けたと囁かれている)、今度は小さな民放局をひとつ買い取ってマスメディアの世界に参入、その後イタリア各地の民放局買収を繰り返すと、そのすべてをつなぎ合わせ、ほんの数年間で国営放送局に対抗する民放ネットワークを築き上げた。さらに広告代理店、新聞社、出版社にまで手を広げて、80年代半ばには一大メディアグループのオーナーとなる。

こうして実業界の風雲児となったベルルスコーニが、破産寸前となったミランの前に救世主として現れたのは、1986年のこと。クラブの経営権を買い取って会長に就任すると、最初にやったのは、ヘリコプターでミラネッロに乗りつけ、監督、選手、そしてスタッフ全員と食事を共にし、彼らにカルティエの銀杯をプレゼントすることだった。「この銀杯で皆さんとともに勝利の美酒を味わう日が遠からず来ることをお約束しよう」。

それからの数年間、ベルルスコーニは、それまでの常識を覆すような大胆かつ斬新な試みを繰り返してイタリアの保守的なサッカー界を席巻し、あらゆる意味で新しい時代をカルチョにもたらすことになる。

ケタ違いの資金を移籍マーケットに投じてトッププレーヤーを次々と買い集めると、そのチームを当時セリエBのパルマで指揮を執っていた無名の若手監督アリーゴ・サッキに委ねる。セリエAでまったく実績を持たないばかりか、プロサッカー選手としての経験すらない頭でっかちの理論家にチームを任せるというベルルスコーニの選択を、マスコミは素人扱いして批判を浴びせた。

ところが、4-4-2のプレッシングサッカーという最先端の戦術をチームに根付かせたサッキは、就任1年目にスクデット、2年目に欧州チャンピオンズカップを制すると、その勢いのまま89年12月のトヨタカップにも勝ち、わずか2年半で世界の頂点に駆け登ることになる。

クラブとチームに関するあらゆる情報を把握し、どんなことにも首を突っ込み、すべてを自分が決めなければ気が済まないところは、ビジネスでもサッカーでも変わらない。さすがに毎試合のスタメンを決めるのは監督の仕事だったが、少しチームの調子が落ちると、戦術的なところにまであれこれと口を出さなければ気が済まなかった。

だが、ベルルスコーニが他の幾多のワンマン会長たちと違うのは、だからといって何でも言うことを聞くイエスマンを監督に起用したりせず、会長の意見に耳を貸さず自身の信念で仕事に取り組む肝の据わった人物を選ぶところである。

1991年、サッキがイタリア代表監督に転身した後任として指名したのは、それまで監督としての実績がほとんどなかったファビオ・カペッロだった。カペッロはミランを最後に現役を引退した後、育成部門のコーチを経て、ベルルスコーニが設立した総合スポーツクラブ『ポリスポルティーヴァ・メディオラヌム』(野球、ラグビー、バレー、バスケット、ホッケーといった種目のセミプロチームを持っていた)の総責任者を務めていた。トップチームの監督を勤めた経験は、サッキが就任する前のシーズンに前監督が解任された後を受けた、たった5試合しかなかったのだ。

だがそのカペッロは、就任1年目にセリエA無敗優勝という偉業を達成すると、その後も4シーズンで3回のスクデットを勝ち取るという、素晴らしい結果を残すことになる。サッキ、カペッロという2人の名監督を「無から」発掘し、抜擢した眼力の確かさこそ、ミランの会長としてほんの数年間でこれだけの成功を収めた、最大の要因だったといえるだろう。

ビジネスの発想と手法をカルチョの世界に大胆に持ち込んだのもベルルスコーニだった。スクデットとチャンピオンズリーグの両方を狙うのならば2チーム分の選手を買い揃えればいい、競争相手の戦力を削ぐためには優秀な選手をすべてミランが買い占めてしまえばいい——といった考え方は、それまでのサッカー界にはまったく存在していなかった。

ほんの数年でミランを世界最高のクラブに仕立て上げたことで、圧倒的な評価と名声を築き上げたベルルスコーニは、1994年、今度はそれを利用して政界に打って出る。『フォルツァ・イタリア』というサポーターグループもどきの政党を立ち上げると、自らのTV局をフルに活用して「新製品の市場プロモーション戦略とほとんど変わらない」と言われるほどの選挙キャンペーンでTVや新聞を埋め尽くして庶民の人気を勝ち取り、総選挙に圧勝、あっというまに首相の座に上りつめてしまった。

だが、政界への進出によって超多忙となったベルルスコーニに、ミランのために割く時間はさすがに残されていなかった。その代わりに、クラブの舵取りを任されることになったのが、ミランを買収した当時から片腕として働いてきたアドリアーノ・ガッリアーニ副会長である。

ガッリアーニ:情熱と感情に突き動かされる男

1944年生まれのガッリアーニは、ベルルスコーニよりも8歳年下。ミラノ近郊のモンツァで生まれ育ち、高校卒業後は8年ほど市役所の職員を務めていたが、退職してTV機器の製造会社を立ち上げ、実業家の道に入った。

当時のイタリアは、国営放送以外にTV局が存在していなかったが、国境からそう遠くないイタリア北部では、隣接するスイス、フランス、スロヴェニアなどの電波を受信することができた。ガッリアーニの会社が製造していたのは、そうした外国放送局を視聴するためのコンバーターである。その市場が飽和すると、今度は国内各地の山岳部に猫の額ほどの土地を買っては、電波を再送信するための電波塔を建設、外国放送局の電波を南イタリアのシチリア島まで送り届ける海賊放送ネットワークを数年で作り上げた。その電波を受信するためには、ガッリアーニの会社が販売するコンバーターが必要だったことは言うまでもない。こうしてマーケットはイタリア全国に広がった。当時のイタリアには、そうした行為を規制する法律が存在しておらず、ガッリアーニのビジネスは、法の網の目をくぐったアイディア商売だった。

ベルルスコーニとの出会いも、そのビジネスがもたらしたものだった。マスコミ産業に進出しようと目論んでいたベルルスコーニは、ガッリアーニの事業に目をつけると、まったく見ず知らずのガッリアーニを自宅にに招待し、「あなたは私と一緒にRAI(国営放送局)を超えるTVネットワークを築かなければならない。私があなたの会社の株式を50%分買い取りましょう。値段はあなたが決めて下さい」と初対面で持ちかけた。1979年10月のことである。ここから、30年近くに及ぶ2人の関係が始まった。

ガッリアーニは当時、地元のクラブ・モンツァの副会長を務めており、ベルルスコーニの側近の中では、最もサッカーの世界に近い存在だった。ベルルスコーニがミランの買収に乗り出したとき、片腕として指名されたのは当然の成り行きだったといえるだろう。

だが、ベルルスコーニが政界に進出し、ガッリアーニに実権が移った後のミランは、決して順風満帆とはいかなかった。95-96シーズンにカペッロが4度目のスクデットを勝ち取って勇退した後の2シーズンは、10位、11位という惨憺たる成績に終わる。ガッリアーニが初めて自ら選んだ監督であるウルグアイ人のオスカル・ワシントン・タヴァレスは3ヶ月足らずで解任、後任に呼び戻したサッキ、カペッロも、もはや神通力を失った存在だった。

「ガッリアーニは無能だ。やはりベルルスコーニがいないとミランはダメだ」。当時このような言説がどれだけ繰り返されたことだろう。98-99シーズン、次に選んだ監督アルベルト・ザッケローニが就任1年目でスクデットを勝ち取った瞬間、ペルージャのスタジアムで半狂乱になって喜びを爆発させたのは、そうした声をやっと見返したというカタルシスゆえだった。

そしてその後、アンチェロッティという名監督を手に入れたガッリアーニは、スクデット1回、チャンピオンズリーグ2回という新たな黄金時代を、自らの手で築くことになった。

ベルルスコーニは、ミランの経営をビジネスとして割り切り、またその成功を政界進出という個人的な野心の踏み台にした。すべては計算ずくの行動だったともいえる。しかしガッリアーニを突き動かしているのは、野心ではなくカルチョへの情熱である。

筆者は4年ほど前、ガッリアーニにロングインタビューをする機会を得たことがある。今も印象に残っているのは、次のようなコメントだ。

「プロサッカークラブというのは、企業としては特殊な存在です。試合結果に左右される部分が異常に大きいのです。もちろん、どんな企業でもその経営は事業の結果によって左右されますよ。しかしカルチョの世界には、このスポーツがもたらす巨大な社会的反響、結果をめぐる感情の起伏が関わってきます。問題はそれです。
ある日曜日の試合に1-0で勝つか0-1で負けるか、それを左右するのはほんの小さなことでしかありません。にもかかわらず、勝利と敗北では、それが巻き起こす感情の起伏、そしてテレビや新聞などのマスコミ、そして何百万人というサポーターが作り出す反響は極端なほどに異なります。
そういう、カルチョに特有の感情的要因に影響されることなく、一般の企業経営と同じようにクラブを運営し、決断を下すというのは、残念ながら不可能に近いですね。カルチョの世界は、ある意味では理屈の通じない世界、感情に支配された世界といってもいいのかもしれません」

そんな世界の中で、これだけの成功を収めてきたベルルスコーニとガッリアーニ。間違いなく、カルチョの歴史に名前を刻む偉大なクラブ経営者である。□

(2007年11月3日/初出:『AC MILAN HEROES:COSMIC MOOK サッカーベストシーン 14』)

By Michio Katano

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。