4月5日のチャンピオンズ・リーグ準々決勝第1戦、イタリア勢で唯一、ヨーロッパの舞台に生き残っているラツィオは、ヴァレンシアの前に2-5という大敗を喫した。

まだ第2戦が残っているとはいえ、3-0か4-1で勝たない限り勝ち残りはない。欧州カップのベスト4にイタリアから1チームも残れないという、過去10数年例を見ない悲惨な事態がマジで現実味を帯びてきた。
 
セリエAが「世界で最も美しいリーグ」と言われるようになって久しい。しかし、少なくともこの1-2年に限っていえば、これは「看板に偽りあり」もいいところではないかという気がする。

「世界で最も多くのスター選手が集まっているリーグ」、「世界で最も戦うのが難しいリーグ」というのならわかるが、そこで展開されているサッカーは、スペインリーグやプレミアリーグと比べると、決して見ていて楽しいスペクタクルなものではない。「美しい」というにはあまりにも守備的で、神経質で、ダイナミズムに欠けているように見えるのだ。

イタリアのチーム同士が対戦する国内のゲームを観ている限りは、それを感じさせられることもあまりないのだが(見慣れているせいもある)、チャンピオンズ・リーグやUEFAカップで他国のチームと戦った試合を観ると、その印象は途端に強くなる。

先々週、フィオレンティーナvsボルドー、ミランvsユヴェントスと2試合続けて観る機会があったのだが、「美しい」という言葉が少しでもあてはまるサッカーを見せてくれたのは、前線の2人(ウィルトールとラスランド)が動いて作り出したスペースを2列目がいかに使うかを模索し続けたボルドーだけだった。

フィオレンティーナは、ボールを持った選手がまずはバティストゥータかルイ・コスタを探し、直接パスを出せなければ2-3本回してあとは前線に闇雲に蹴り込む、というサッカーに終始していたし、ミランvsユヴェントスは、お互いが中盤での潰し合いに全精力を傾けた緊張感みなぎる一戦ではあったが、同時にファウルばかりが多い退屈な試合でもあった。
 
事実、イタリア国内でも、ヨーロッパの舞台での惨状(と代表の不振)を契機に、イタリアサッカーの「質」を問う議論がこのところ高まりつつある。その中でも、アッリーゴ・サッキ、ズデネク・ゼーマン、マルチェッロ・リッピ、さらにはホルヘ・ヴァルダーノ(アルゼンチン)といったエキスパート中のエキスパートの意見は非常に興味深いものだ。

というわけで、以下、彼らの目から見たイタリアサッカーの現状をご紹介することにしたい。出典は、1月に創刊されたばかりの週刊サッカー・オピニオン紙「リゴーレRigore」。新聞サイズでわずか4ページながら、今イタリアで一番読み応えのあるサッカーメディアである。

「いまヨーロッパのリーグで、攻撃的なサッカーが本当に支配的なのは、オランダとイングランドだけだ。ただスペインは、オランダ、イタリア、ドイツ、アルゼンチンなど様々な国から監督を迎えているだけに、様々なタイプのサッカーが楽しめるという点で興味深い。

一方、ドイツ、イタリアはそれぞれの国の伝統的な枠組みの中にとどまったままだ。ドイツはバイエルンを除けば、未だにプレーの質よりもフィジカルを重視したサッカーにとどまっているし、イタリアは、ディフェンス主義と戦術主義に支配されている」(ホルヘ・ヴァルダーノ)
 
「イタリアで広くプレーされているのは、守備的で、受動的で、静的で、単調で、エモーションに欠けるサッカーだ。我々のDNAに刷り込まれた“まずは守りを固めて、もしできれば攻撃も考える。ただし、なるべくリスクを冒さないようにしながら”という思想が再び支配的になってしまった。

ほとんどのチームは、攻撃に人数を割かず、前線と中盤から1-2人余計にディフェンスに回すことで、ゲームを支配することを諦めてしまっている。得点のほとんどは、相手のミスか、カウンターアタックか、個人のスーパープレーから生まれている。

イタリアサッカーの伝統を踏襲しているといえばその通りだが、ミラン、ユヴェントスが拓いた新たな地平からはまったく逆戻りしてしまったことも明らかな事実だ」(アッリーゴ・サッキ)
 
「客観的に見て、イタリアのサッカーは、ヨーロッパの他の国と比べるとひどくつまらない。ゲームを支配しているのは失点に対する恐怖。セリエAでいま最も一般的なシステムは7-1-2あるいは8-2だ。3-4人のDFが自陣に張り付き、中盤の4-5人は攻撃やその組み立てではなく、相手の攻撃を妨げ、ボールを奪う能力の高い選手ばかり。攻撃は、前線の2-3人にすべてが託される」(ズデネク・ゼーマン)

80年代後半から10年強の間、サッキとカペッロ(特に前者)のミラン、そしてリッピのユヴェントスは、高い位置からの激しいプレッシングと素早いボール回しによる組み立てでゲームを積極的に支配しようとする、攻守ともに攻撃的なサッカーを展開し、ヨーロッパの頂点に立った。

しかし、この1-2年、イタリアのサッカーは再びディフェンス主義に支配されつつある、というのが彼らの主張である(これにはまったく同感)。

そして、それを象徴するのは中盤でのチームの振る舞いだ、という点でも、彼らの意見は一致している。

「最大の問題は中盤だ。相手に攻撃のスペースを与えることへの恐れが、前線に飛び出して数的優位の局面を作るMFの試みを妨げている。結果として中盤に選手が集中した状態でのボールの奪い合いがゲームの基調低音となる。

皮肉なことだが、そうなると最も効果的な攻撃は、中盤を省略して前線にロングボールを蹴り込むことである。中盤のスペースをめぐる攻防が激しくなった結果、前線ではしばしば、FWが相手のDFと数的均衡の局面を得ることができるからだ。

ゴールが組み立てから生まれることは稀で、ほとんどは個人の能力に頼ったひとつのプレーから生まれる。したがって、勝つのは、たったひとつのプレーで試合を解決できる選手を持ったチームだ。インテルならヴィエーリ、ラツィオならミハイロヴィッチ、ローマならモンテッラ、ミランならシェフチェンコ、ユヴェントスならジダン」(ズデネク・ゼーマン)
 
「中盤は組み立ての基盤となる場所だ。ところがイタリアでは、中盤でのプレーの目的が、組み立てることではなく(相手のプレーを)壊すことになっている。その結果、クリエイティヴな選手よりも、守備に長けてファウルの多い選手の方が重宝されることになる。

ゾーラが海外移籍を余儀なくされたり、バッジョがベンチでくすぶっていたり、トッティがFWへの転身を余儀なくされたりしている理由はそこにある。ジダンやヴェロンのような選手も、組み立てのためのパートナーが中盤に不在なので、前線に決定的なパスを供給することだけにその役割が限定されてしまっている。

イタリアでは、中盤からプレーを組み立てることは、危険なことだと考えられている。ボールを奪われたときに直面するリスクが大きすぎるからだ。それならば、組み立てを諦めた方がいい、というわけだ」(ホルヘ・ヴァルダーノ)
 
確かに、これまでぼくが話す機会を得たイタリアの監督たちが必ず口にしたのは「最も大事なのは、点を取られないこと」という一言だった。そして「ディフェンスの基本は常に数的優位を確保すること」とも。

しかし、守備の局面で常に数的優位を保とうとすれば、ボールを奪取した瞬間に、ボールより前にいる味方はほとんど常にかなりの数的不利に置かれていることになる。

それを打開する最も簡単かつ安全な方策は何か。それはゼーマンの言うように、中盤を省略し、前線にいる(多くて)2-3人にボールを預けてしまうことである。これならば、少なくとも高い位置でボールを奪われてカウンターを喰らうリスクはないし、一気にフィニッシュまで持ち込める確率も高くなる。

攻撃をかけるときにも、常に次の守備の局面を想定して十分すぎるほどの「保険」をかけておくというのが、最近のイタリアサッカーのメンタリティなのである。
 
「イタリアのチームと戦ってそのディフェンスを打ち破るのは確かに難しい。しかし、スペクタクルとして見れば、彼らのサッカーが怖ろしいほど退屈なことも事実だ。

イタリアには世界で最も素晴らしい選手が集まっていることを考えれば、これだけつまらないサッカーしか見せられないという現状を肯定的に受け入れることはとてもできない」(ホルヘ・ヴァルダーノ)
 
では、果たして何が、イタリアのサッカーに「ディフェンス主義」のメンタリティを呼び戻す原因となったのか、サッキのミランやリッピのユーヴェ、そしてゼーマンが拓いた攻撃サッカーの地平は放棄されてしまったのか―というのが次の話題なのだが、これは始めると長くなってしまうので、機会を改めて取り上げることにしたい。

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。