6月27日にマルセイユで行われた決勝トーナメント第1戦、イタリアはノルウェーを1-0で破り、準々決勝進出を決めた。得点はまたも「ボボ」・ヴィエーリ。ディビアージョからの縦パスをゴール左隅にダイアゴナルできっちり流し込み、早くも通算5得点目。得点王争いのトップに立った。

ところで、この試合のノルウェーの戦い方は、なかなか興味深いものだった。前半18分に1点のビハインドを背負ったにもかかわらず、前線にT.A.フロ1人を残し、自陣内に10人が引きこもってカウンターの機会をうかがうという戦術を、なかなか崩さないのだ。

ワンチャンスで追いつける1点差はまだ許容範囲、と考え、守勢を崩さずに、相手が前がかりになったり「攻め疲れ」に陥ったりするのをじっくり待つ、というのは、いかにも長い冬を辛抱強く耐えるのに慣れた北欧のチームらしい、といったらこじつけに過ぎるだろうか(今回耐えなければならなかったのは「暑さ」だったが)。

とはいえ、「北欧らしさ」は、彼らのプレーぶりにも表れているように見えた。スピードと技術では明らかに優っているイタリアを相手に、体格に物を言わせてガンガン当たってくることもなければ、(オーストリアのように)ファウル覚悟で「削り」に来ることもない。「淡泊」という形容詞を使いたくなるほどクリーンかつフェアで、何というか、勝負に対する過剰な執念、あるいはそこから来る狡猾さ(例の「マリーシア」ですね)のようなものが一切感じられないのだ。

それはノルウェーという国におけるサッカー(そしてスポーツ)の位置づけとおそらく無関係ではないだろう。他の大半の欧州諸国とは異なり、ノルウェーでは、サッカーはスキーやアイスホッケー同様、単に、いくつかあるメジャー・スポーツの1種目に過ぎない。

スポーツ人口比率はかなり高い方だったと記憶しているが、産業化したプロフェッショナリズムは普及していない。つまり、彼らにとってスポーツ(もちろんサッカーも含めて)は、その言葉本来の意味において「スポーツsports」なのであり、おそらくそれ以上の過剰な意味や価値を担ってはいないのである。

たとえワールドカップといえどもそれは変わらないように見える。ノルウェーの選手たちは、サッカーを純粋な「スポーツ」としてフェアにプレーしていたのであり、トップ・アスリートとしてのプライド以外には、何の使命感も背負ってはいなかったに違いない。ワールドカップに国民の面子を賭けたりする「サッカー・ネーション」のメンタリティーとは無縁なのだ。しかし、これもひとつの「スポーツ文化」のあり方には違いない。

さて、試合の方は、ノルウェーの「待ちの戦術」に乗せられて攻撃に人数をかけてしまうほど浅はかではない百戦錬磨のイタリア(こちらは「マリーシア」の固まりである)が、虎の子の1点に「閂」をかけてペースダウン、試合をコントロールしにかかる。リードしてしまえば、後は決して無理をせず、縦パス一本のカウンターを狙いながら、適当に捌くのが「いつもの手」である。

しかし、今大会のイタリアは、まだ(なのか結局最後までそうなのかは何ともいえないところだが)試合の展開を手中に収めてコントロールし切るところまで、チームとして成熟してはいない。後半に入り、ノルウェーが覚悟を決めて前に出てきたところから、中盤(とくに相手の右サイド)の主導権を手渡し、かなり一方的に押し込まれてしまう。

とはいえ、最後のところできっちり食い止めるところはさすがで、唯一与えた決定的チャンスも、T.A.フロのヘディングシュートをパリウカがファインセーヴ。結局、試合は1-0のまま、イタリアの「順当な」勝利に終わり、ノルウェーの選手たちは、あくまで「スポーツマン」らしく、爽やかにフィールドを去った。

以下は、試合後のマルディーニ監督のコメントである。
「確かに我々は苦しんだ。しかし、だからどうしたというのか。ご存じの通り、イタリアはブラジルのように華麗なチームではない。勝つためには耐えなければならないのは当然のことだ。過去17試合無敗で、前の試合ではその華麗なブラジルを破っているチームを相手に、大きなリスクを犯すこともなく、非常にいいゲームをして勝ったというのに、あなたたちはこれ以上何を望もうというのか!?」

ノルウェーとは全く異なり、イタリアでは、サッカーはもはや単なる「スポーツ」ではない。代表チームともなれば、人々は、その勝敗が自分自身の面子にかかわる出来事であるかのように振る舞う。これは、国の威信にかかわる、というのとはちょっと違う。イタリアの人々にとって、代表チームは「国家」などではなく「国民」を代表しているのであり、その意味で、文字どおり「他人事ではない」し、「負けることに耐えられない」のである。

国民の過剰な期待を背負ったイタリア代表には、結局のところ「結果」以外に逃げ道はない。マルディーニ監督は、それをよくわかっている。だからこそ、たとえ格下の相手に押し込まれようとも、たった1点しか取れなくとも、世界中のマスコミから「カテナッチョ」と揶揄されようとも、きっちり勝ちさえすれば、「非常にいいゲームをして勝ったというのに、あなたたちはこれ以上何を望もうというのか」と、堂々と開き直ることができるのだ。

彼が監督でいる限り、惚れ惚れするような「いい試合」をイタリアが見せることはおそらくないだろう。「勝つためには耐えなければならない」のである。負けるときは案外ころっといくのかもしれないが・・・。

さあ、次はフランス戦である。

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。