ワールドカップが近づいてきたので、復習じゃありませんが、4年前のドイツ大会で『エル・ゴラッソ』紙に寄せた原稿の中から、イタリア代表関連(これはもう全部アップしてあります)を除く、大会全般について書いたコラムを再録していきたいと思います。1本目は、21世紀におけるワールドカップの位置づけとその味わい方について。
ワールドカップが、その時点における最先端のサッカーが表現される舞台だったのは、もうだいぶ昔の話だ。
今や、欧州や南米の代表チームが招集されるのは、年に数回、延べにしても40日がいいところ。普段は異なる国の異なるクラブでプレーしている選手たちを、ひとつのチームにまとめ上げ、組織的な戦術を浸透させるためには、まったく不十分な時間でしかない。
いま、世界で最先端のサッカーが表現される舞台は、世界中のトッププレーヤーが集まってしのぎを削る欧州クラブサッカーシーンだと言い切って、異論のある方はそう多くはないはずだ。
それでは、今やワールドカップの存在意義は薄れてしまったというのだろうか。
開幕から2日間の5試合を見て確信したのは、いや、まったくそんなことはない、ワールドカップはワールドカップの意義と価値をこれからも持ち続けて行くに違いない、ということだった。
確かに、ピッチ上で表現されるサッカーの技術・戦術レベルに話を限れば、代表マッチはクラブサッカーにはかなわない。そのかわり、ワールドカップの舞台で戦う各国代表チームのサッカーには、それぞれの国が固有の社会と文化の中でこのゲームをどのように理解・解釈し、発展させてきたか、そのありようが直接、間接に反映されている。
逆説的なことに、組織的な戦術を浸透させる時間がなくなった近年は、各国のサッカーが持っている“土着的な”側面が、むしろ強調されてきているようにすら見えるほどだ。ヴァナキュラー・フットボールである。
ウイングを置かず、ロングボールも使わず、ひたすらパスをつないで攻撃を組み立て、最後は「10番」が必殺のスルーパスで仕留める、まるで古典芸能のようなサッカーを見せる南米の雄アルゼンチン。3ラインをコンパクトに保つモダンな4-4-2を志向しながら、組織的な動きがぎこちなく、やっぱり腕力勝負の直線的なサッカーになってしまうゲルマンなドイツ。
攻守とものんびりしていてミスが多いけれど、突然鋭いひと仕事を見せる気分屋の中米コスタリカ。フィジカルもテクニックも抜群で戦術的にも洗練されているが、集中力が持続せず諦めも早いコートジヴォワール。
国家の代表チームが世界の覇権を賭けて戦う舞台であるワールドカップのピッチには、クラブサッカーから今や消えつつある文化的な象徴性が、ますます濃厚に表現されている。この4年に一度の祭典は、勝ち負けやプレーの機微や戦術だけでなく、そうした側面を読み取り味わう楽しみも与えてくれる。■
(2006年6月10日/初出:『El Golazo』)