下で取り上げたミランとは対照的に、昨シーズン同様圧倒的な強さを見せてセリエA首位を走っているインテルですが、これも昨シーズン同様、アドリアーノがトラブルを抱え、ブラジルで「リフレッシュ休暇」を過ごすことになってしまいました。
12月いっぱい、心身のリハビリテーションに専念して1月の冬休み明けから復帰、という話になっています。そこでご参考までに、昨シーズンの「リフレッシュ休暇」を取り上げた原稿を。1年経っても状況はなにひとつ変わっていないことがよくわかります。
インテルが、アドリアーノに突然、故郷ブラジルで1週間のヴァカンスを過ごす“リフレッシュ休暇”を与えたのは、週末にミラノダービーを控えた10月22日のことだった。
獰猛な左足を持つこの怪物が、シーズン開幕以来、いや、昨シーズン後半からワールドカップを経て現在まで延々と、極度の不調に陥っていることは周知の通り。なにしろ、2006年を通して公式戦で決めたゴールが、インテルでの3点(最後が今年3月)とワールドカップでの1点、わずかに4得点のみという寂しさなのだ。
今シーズンは、夏のキャンプから続くオーバーウェイトを解消できないまま、慢性的なコンディション不良が続き、試合に出てもまともに動けずチームの足を引っ張るばかり、かといって途中交代を命じられると不満をあらわにし、ベンチに置かれればまた不機嫌そうな表情を隠さない――と、自らをネガティブな状況に追いやるような振る舞いばかりを繰り返してきた。
アドリアーノほどの選手になれば、活躍している時はもちろん、そうでない時にはなおさら、マスコミはそれをあげつらう。しかも彼の場合、故国ブラジルのマスコミまでがうるさいから厄介である。この直前には、夏のオフシーズン中に誰かが撮った、女の子に囲まれて上半身裸でタバコを手にしている写真(と書くとスキャンダラスだが、実際には全然大したことはない)がインターネット上で出回り、世間を騒がせていた。
この状況に最も苛立ち苦しんでいたのがアドリアーノ本人であることは間違いない。しかし開幕以来の経緯を見る限り、ある日突然何かが変わって問題が解決に向かうようにはとても見えなかった。
“リフレッシュ休暇”のニュースが駆け巡ったちょうどその日、取材でピネティーナ(インテルの練習場)を訪れマンチーニ監督とゆっくり話をする機会があった。
「アドリアーノの問題はここ(と言って頭を指さす)なんだ。身体がやることに頭がついていかない状態では、いくらハードにトレーニングしたって意味がない。コンディションっていうのは、フィジカルとメンタルの両輪だからね。今大事なのは、まずメンタルを回復すること。アドリは、何をやってもマスコミから追い回される運命にある。だったら、そういう環境から一度遠ざかって自分の好きな場所でリラックスして過ごし、リフレッシュして戻って来るほうがいいっていう結論に達したわけ」
マンチーニが幸運なのは、シーズンの真っ只中にエースストライカーに暇を出せるだけの余裕があったことだ。インテルの攻撃陣には、イブラヒモヴィッチ、クレスポ、クルス、レコーバと、一線級のFWがあと4人も名を連ねている。不調の上に、マスコミの反応も含めてトラブルの種になりやすいアドリアーノが選択肢から外れたことで、選手起用をめぐる状況はむしろずっとシンプルになった。
案の定というか何というか、インテルはそこから、ミラノダービーとCLのスパルタク・モスクワ戦を含む3連勝を飾る。その間にブラジルから届いたのは、ノーヘル&ビーサンで友人のバイクの後に乗り、ビールを買いに行くアドリアーノの写真である。
こうなると、アドリアーノ不要論が飛び出すのは、当然の成りゆきというものだろう。「インテル、アドリアーノ効果。出発してから3連勝!」。『コリエーレ・デッロ・スポルト』紙はCL明けにこんな見出しを打ち、インテルの状況があらゆる面で好転したことを強調した。
こうした空気を察したのか、当初は「いつイタリアに戻るかわからない」と口走っていたアドリアーノも、大方の予想を裏切ってヴァカンスを1週間で切り上げ、11月2日にイタリアに戻ってきた。しかし、それを報じた『トゥットスポルト』紙の見出しは「助けて!アドリアーノが帰ってきちゃった」というもの。もう完全に厄介者扱いである。
アドリアーノはこれから3週間ほど、フィジカルコーチとマンツーマンでトレーニングを続け、コンディションが戻ったところでチームに合流する計画になっている。マンチーニは「年末までにベストコンディションに戻ってくれることを祈っている」と、まったく焦る様子を見せていない。
つい1年前には「アドリアーノ依存症」といわれていたインテルは、今やアドリアーノなしで十分やっていけることを証明してしまった。あとは、彼自身がチームに必要とされる存在に戻れるかどうか。すべてはそこにかかっている。
「偉大な詩人はその振る舞いがいかにクレイジーであっても、孤独の中で神に祝福された素晴らしい詩を書くことができる。しかしサッカーにおいて、才能が孤独の中で表現されることはあり得ない。決められた規範に従って振る舞わない限り、才能は亡霊のように宙を漂うだけだ。
チームメイトから必要とされている以上に、彼もまた彼らを必要としている。その相互関係が成り立たない限り、彼はボールを持つことすらできない」(ジョルジョ・ブレッサ/スポーツ心理学者)■
(2006年11月4日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」)