昨今の金融危機で、近年バブりまくっていたプレミアリーグにも嫌な影が差してきているようですが、今回はそのプレミアで売却の噂も出ているトッテナム・ホットスパーのオーナーである投資会社ENICが1997年から2004年まで保有していたヴィチェンツァのクラブレポートです。
取材、執筆は7年前の2001年5月。当時ルカ・トーニを擁してセリエAで戦っていたヴィチェンツァは、このシーズン末に降格して以来、8シーズンに渡ってセリエBで戦っています。04-05シーズンにはプレーアウトで敗れてセリエC1への降格が決まりながら、コゼンツァが破産したおかげでBに残るという綱渡りもありました。
ENICが04年に経営権を手放した後は、地元資本の共同出資によって経営されています。取材したシーズンにチームを降格に導いたエディ・レーヤ監督は、今ナポリを率いてセリエAの首位に立っています。
ペルージャのように名物会長がいるわけでもなければ、バッジョを抱えるブレシアや、有望な若手を次々と輩出するアタランタのような「目玉商品」もない。イタリア北東部ヴェネト州の小都市に本拠を置き、赤と白の縦縞をシンボルカラーとするヴィチェンツァは、一見すると地味な印象を受けるクラブだ。
しかし、少なくともひとつ、他のどんなクラブとも大きく異なっている点がある。それは、セリエAのクラブでは唯一、イタリア人ではないオーナーを持っているということだ。現在ヴィチェンツァ・カルチョを所有しているのは、ENIC(English National Investiment Company)というやけに偉そうな名前を持つ、イングランドに本拠を置く投資会社なのである。
97年1月に、前会長のダッラ・カルボナーラが脱税容疑で逮捕され、クラブの売却を余儀なくされた時に、ヴィチェンツァの全株式を買い取ったのが同社だった。現在では、ヴィチェンツァの他にもチェコのスラヴィア・プラハ(100%)、スイスのバーゼル(50%)、ギリシャのAEKアテネ(50%)、イングランドのトッテナム・ホットスパー(30%)の株式を保有しており、サッカークラブをひとつの投資の対象と見ていることは明らかだ。
この事実が経営にどのように反映されているのかが、ヴィチェンツァというクラブを読み解く上で大きなポイントになるだろう。しかし、その前にまずは、このクラブのこれまでの足跡を振り返っておくことにしよう。
ヴィチェンツァ・カルチョの創立は1902年。来年100周年を迎える名門である。セリエAにその名を連ねるようになるのは1940年代からだが、現在までの通算在籍年数30シーズンは、プロヴィンチャーレの中ではアタランタ(43シーズン)に次ぐ数字で、イタリアの全クラブ中13位にあたる。セリエA、Bにイタリアで最も多い6つのクラブ(00/01シーズン)を送り込んでいるヴェネト州の中でも、ヴェローナと並んでリーダー的な存在だ。
とはいえその30シーズンの大半は、20年に渡ってセリエAの一角を占め続けた、1950年代半ばから70年代末にかけて積み重ねたものだ。その末期ともいえる77-78シーズンには、82年W杯で得点王に輝くことになる若きパオロ・ロッシを擁して、ユヴェントスに次ぐ2位という伝説的な偉業を達成してもいる。
しかし、栄光の終わりははかないものだった。その翌年、財政難からロッシを失って、そのまま一気にセリエBに降格すると、79-80シーズンから94-95シーズンまでの16シーズンを、セリエBとC1を往復しながら過ごすことになったのだ。
ヴィチェンツァの育成部門で育ったロベルト・バッジョが、わずか16歳でトップチームにデビューしたのも、C1で戦っていた82-83シーズンのことである。バッジョはその2年後、12ゴールを挙げてチームのB昇格に貢献すると、フィオレンティーナに移籍していく。
その後の彼の活躍は誰もが知るとおりだが、バッジョが後にしたヴィチェンツァがセリエAの舞台に返り咲くまでには、それからさらに10年の歳月が必要だった。
16年ぶりのセリエA昇格を果たしたのは、若手監督の中でもとりわけ評判の高かったフランチェスコ・グイドリンをベンチに迎えた94-95シーズンのことだ。当時プロヴィンチャーレの間ではまだ少数派だったゾーン・ディフェンスの4-4-2を採用し、積極的にゲームを支配するしたたかなサッカーをチームに植え付けた39歳の指揮官は、その後の3シーズン、ヴィチェンツァの歴史にひとつの時代を画す大きな実績を残すことになる。
95-96シーズンは、A昇格1年目としては上々の9位。そして96-97シーズンには、シーズンの1/3を終えた10節の時点で首位に立つという快進撃を見せる。最終的には前年よりひとつ上の8位まで後退してシーズンを終えたものの、コッパ・イタリアでは決勝でナポリを下し、クラブ史上初めてのビッグタイトル獲得という偉業を達成。UEFAカップに出場して1回戦で敗退した78-79シーズン以来2度目となる、欧州カップへの出場権を獲得した。
そして翌97-98シーズンには、そのカップウィナーズ・カップで順調に勝ち進み、誰も予想しなかったベスト4進出を果たす。準決勝の第1レグ、ジャンルカ・ヴィアッリとジャンフランコ・ゾーラのチェルシーをホームに迎え撃ち1-0で破った夜が、グイドリン時代のクライマックスだった。結局、ロンドンでの第2レグで1-3と力つき、決勝進出こそならなかったものの、クラブ100年の歴史の中で最も輝かしい1ページとなった。
栄光の後に失意が待ち受けているのは、このクラブの運命なのかもしれない。グイドリン監督が惜しまれながらウーディネに去った翌98-99シーズン、レッジーナからやはり若手のフランコ・コロンバ監督を迎えたヴィチェンツァは、序盤から下位に低迷。シーズン半ばでコロンバからエディ・レーヤへと監督を交代させたものの復調の兆しは見えず、そのままあえなくB降格を喫してしまう。
しかし、主力の大半を手放すことなく、セリエAへの即時復帰を目指した昨シーズンは、中盤戦にさしかかった第17節で首位に立つと、そのままシーズン閉幕までその座を一度も明け渡すことなく守り切り、堂々と優勝を飾ってセリエAに返り咲いた。
レーヤ監督が留任し、チームを大きくいじることなく堅実な補強で戦力を底上げして臨んだ今シーズンの目標は、もちろんセリエA残留。今までこの連載を読んでこられた方ならもうおわかりの通り、セリエA昇格1年目に、これ以外の目標は立てようがないのである。
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ヴィチェンツァは、ミラノから鉄道で東に約2時間、ヴェネト州の中央部にある小都市だ。人口は10万人と、セリエAのクラブを持つ都市の中では最も少ないが、起業家精神に富んだヴィチェンツァ人の気質を反映して、イタリアで最も経済活動が盛んで豊かな地方都市のひとつに数えられている。
ヴィチェンツァ・カルチョのクラブ事務所は、旧市街を取り巻くように流れるバッキリオーネ川に沿った並木道に面した2万人収容のこじんまりとしたスタジアム、ロメオ・メンティの敷地内にある。今回話を聞いたのは、クラブ運営の総責任者、ゼネラル・ディレクター(GD)を務めるリナルド・サグラーモラ。
99年1月にヴィチェンツァに来るまで22年間、ローマ、ラツィオに次ぐローマ第3のプロサッカークラブ、ロディジャーニ(セリエC1)のGDとして、若手の育成に重点を置くユニークなクラブ経営を進めてきたやり手のディレクターである(ちなみに、ローマのキャプテン、フランチェスコ・トッティも元々はロディジャーニ育ちだ)。筆者にとっては、4年前にロディジャーニを訪れた時以来の再会となった。
まず話題に上ったのは、やはりクラブのオーナーであるイングランドの投資会社ENICとの関係である。同社がヴィチェンツァ(をはじめとする各クラブ)をコントロールするやり方は、予想以上にクールでビジネスライクなものだった。
「ENICは、サッカークラブを株式や債券と同じ、ひとつの純粋な投資対象と考えています。クラブを買収してある期間運営し、より高い価格で売却する。いわゆる企業買収の考え方です。彼らの関心は、クラブの資産としての価値を高めることだけにありますから、運営のために人材を送り込んでくることは一切ありません。
運営は我々のようなプロのクラブ経営者に任せて、彼らは予算管理を通じて間接的にそれをコントロールしているのです。我々は毎月、ENICの本部に月例レポートを提出し、向こうがそれをチェックするというやり方です。彼らも、サッカークラブの経営が通常の企業経営とは大きく異なることを十分理解していますので、例えば昨シーズンのB降格といった不慮の事態にも、柔軟性を持って対応してくれます。
私がヴィチェンツァに来て2年強になりますが、その間何の問題もありません。むしろ、これほど物わかりのいいオーナーは他にはいないだろうと思うくらいです」
純粋な投資の対象としてクラブを買収し、その運営には直接介入することなく間接的にコントロールするにとどめ、長期的な視点で資産価値を高めることに専念する。これは、カルチョの世界にはまったくないメンタリティだ。
イタリアの実業家がプロサッカークラブを買収するのは、まず何よりも、自らがそのオーナーとして君臨するためといっても過言ではない。プロサッカークラブのオーナーになるというのは、ある意味で社会的成功のシンボル、いわば成り金の究極の夢のひとつだからだ。
いち不動産業者から叩き上げてマスコミ界の帝王となり、ミランを買収してヨーロッパの頂点に押し上げ、その勢いをかって政界にも進出、イタリアの首相にまで登り詰めたシルヴィオ・ベルルスコーニや、ローマの市電の運転手から始めて小さな掃除会社を興し、ロ−マの副会長、凱旋門賞の勝利馬主、そしてペルージャのオーナー会長にまでなったルチアーノ・ガウッチなどは、まさにその典型である。
しかし、ヴィチェンツァとENICの関係は、このイタリア的な図式とはまったく異なる、純粋にビジネスとしてのつながりにとどまっている。これは今のところ非常に特殊な、少なくともセリエA、Bでは唯一のケースである。なにしろ、オーナーがクラブの運営に口を挟まないということ自体、「国民の数だけ代表監督がいる」といわれるイタリアではまったく考えられないことなのだ。
ちなみにいえば、日本のJリーグのクラブの運営形態は、ある意味でこのヴィチェンツァに近いものがある。ただし決定的な違いがひとつだけある。それは、日本にはまだ、ゼネラル・ディレクター、スポーツ・ディレクターといった“プロのクラブ経営者”がまったく育っていないということだ。これはまた機会を改めて論じるべきテーマだろう。
さて、ENICが現場に口は出さない、とはいっても、クラブの運営に“イングランド式経営”の考え方がまったく反映されていないというわけではない。それがはっきりと表れているのが、マーケティング部門の充実である。ヴィチェンツァのクラブ事務所の一角を占めるマーケティング部門のオフィスには、まるで日本やアメリカの企業がするように、同部門の事業コンセプトを標語化したボードが掲げられていた。
その内容をひとことで要約すれば、「ヴィチェンツァ・カルチョのマーケティング部門は、スポンサーシップやパートナーシップの拡大と多様化によって、大企業から地元中小企業、さらには商店にまで宣伝・広告やPRの機会を提供する」というもの。その語彙からして、カルチョの世界のものではなく広告業界のそれである。
事実、マーケティング部門といっても、ヴィチェンツァの場合、主な事業はグッズ類などのライセンス・ビジネスではなく、クラブの様々な活動を広告媒体として提供するスポンサー・ビジネスの方だ。
今シーズンは、メインスポンサー1社(エアコンメーカーのARTEL)、テクニカル・スポンサー1社(UMBRO)、サブスポンサー7社、オフィシャル・パートナー9社、オフィシャル・サプライヤーとコマーシャル・サポーターが計15社、オフィシャル・メディアが4社、計37社とスポンサー契約を結んでおり、その売上げは約70億リラに上っている。サグラーモラは語る。
「この数字は、プロヴィンチャーレの中では異例に高いものだと思います。その背景には、ヴェネト州がイタリアで最も起業家精神に富んでおり、企業の数が多く経済活動も活発だという事情もあります。もちろん、ここまで積極的に取り組んでいるクラブが他にないことも事実です。我々は、今年の1月にこの分野で豊富な経験を持つイギリス人のマーケティング・ディレクターを採用し、この分野を委ねています」
イタリアではまだ、プロサッカークラブにとってマーケティング事業はちょっとしたサイドビジネスでしかない、という考え方が支配的だ。実際に、これまでこのシリーズで取りあげてきたクラブを見ても、プロヴィンチャーレはもちろん、ボローニャ、ウディネーゼといった“中堅”クラスのクラブでさえも、このヴィチェンツァほどには力を入れていなかった。本格的に取り組んでいるのは、一握りのビッグクラブだけ、というのが現状だ。
「しかし、これからはどのクラブも力を入れざるを得なくなるはずです。3月にEU(欧州連合)とFIFAの間で交わされた移籍制度の見直しに関する合意(別項を参照)によって、来シーズンからは、間違いなく選手の移籍金は下がってきます。
いまのところ、移籍金を決めるための算定基準が明らかになっていないため、具体的にどのくらい影響があるかは計算できませんが、選手の売却益が今よりも下がることはまず間違いありません。選手をビッグクラブに売ることで帳尻を合わせてきた我々プロヴィンチャーレは、別のところで売上を上げなければ、これまでと同じ収益を保つことはできなくなるでしょう。
収益が下がれば、支出も削らざるを得なくなりますから、選手に支払える給料も減ります。そうなると、いい選手はチームに来てくれなくなりますから、戦力も低下することにならざるを得ません。その先に待っているのは降格であり没落です。
さらに、2002年一杯で切れる現在のTV放映権契約も、おそらく更新時には今よりも値下がりするはずです。前回の契約があまりにインフレ過ぎたのですが…。いずれにせよ、我々プロヴィンチャーレにとって、この問題はかなり深刻ですよ」
育成部門で育てた選手や国内、海外から発掘した選手に活躍の舞台を与えて“商品価値”を高め、ビッグクラブに売却して利益を上げて、それを再投資して戦力を維持する。この“発掘・育成・売却”のサイクルを維持することが、プロヴィンチャーレの生き残りにとって不可欠な条件であることは、これまでいくつかのクラブの例を見てきた通りだ。
しかし来シーズン以降、EUとFIFAの合意による移籍制度の見直しが適用された結果、移籍金の相場が下がるとすれば、このサイクルを維持することはますます難しくなりそうだ。ヴィチェンツァがマーケティング事業に力を入れてきたことは、結果的にその点からも、同じレベルのライバルに対するアドバンテージを生み出すものだ。
しかしもちろん、スポンサーを獲得できるのも、チームのグッズ類が売れるのも、肝心のチームがセリエAの檜舞台で活躍してこそ。悪くともセリエBに落ちたときには、すぐに優勝を争い1年でAに復帰できるだけの戦いを見せなければ、サポーターもスポンサーも、そして市民も納得しないに違いない。
ヴィチェンツァにとって、4年間続いた“グイドリン時代”が終止符を打った後の2シーズンは、新たな基盤を築くための試行錯誤の時期だったといえる。監督を替えただけで大きな補強もせずシーズンに臨んで、あえなくB落ちを喫した98-99シーズン。そしてそのダメージを最小限に抑え、セリエBを支配して1年でA復帰を果たした昨シーズン。トップチームに関していえば、ここまでのところ、基盤は徐々に固まってきているように見える。
「Bに落ちた時に最も厳しかったのは、チームの柱になる選手を手放さないことでした。具体的には、コマンディーニとザウリの2人です。コマンディーニは前年、Bのチェゼーナにレンタルに出していたのですが、そこで14ゴールを上げて注目され、すでにセリエAのクラブから7つもオファーを受けていました。
それを、もう1年Bでプレーするよう説得するのは、簡単ではありませんでした。ザウリは、ご存じの通り、ヴィチェンツァの中で最もクオリティの高い選手です。セリエBを勝ち抜くためには、ひとりで試合を決めることができる彼のような“別格”のプレーヤーがどうしても必要でした。
この2人だけはどうしても、ということで大きな犠牲を払って引き留めましたが、オテロ、メンデス、アンブロゼッティといった主力を売って若返りを図ったため、移籍収支はプラスでした」
狙い通りこの2人が牽引車となったチームはセリエBで首位を走り続け、楽々と昇格を果たす。そして今シーズンは、チームの基本骨格を残しながら、守備陣(ステルケレ、カルドーネなど)と前線(トーニ、カロン)を強化するという、地味ながら堅実な補強でシーズンに臨んだ。21ゴールを挙げたコマンディーニは、200億リラを超える移籍金でミランに移り、クラブの金庫を潤している。
「我々のように残留を賭けて戦うチームは、シーズン前のメルカートでその年の予算を全部使ってしまうわけには行きません。今シーズンも、途中で手を入れる可能性を予め想定した上で予算を配分して、開幕に向けたチームを組織しました。
もちろん、当初のメンバーで戦い抜ければそれに越したことはありませんし、それを目指してチーム作りを進めています。しかし、このカルチョの世界には、予見不可能なことがたくさんあります。それにどれだけ対応できるかで、結果が決まるものなのです」
事実、開幕から降格ライン上を行ったり来たりという微妙なポジションで戦い続けてきたヴィチェンツァは、冬のメルカートで積極的に補強に乗り出す。課題だった中盤にダボ(モナコ/フランス)、ソンメーゼ(トリノ)という信頼できる即戦力を補強、さらにディフェンスラインの中央にも、ユーヴェからザンキを獲得して、一気にチーム力を引き上げた。
前半戦を4勝4分け9敗(16ポイント)の15位と、降格ラインの下で終えたものの、その後の12試合を4勝3分け5敗で乗り切り、この原稿を書いている29節終了の時点では、降格ラインから3ポイント上の13位。とはいえ、過酷なサバイバル戦線のまっただ中にいることに変わりはない。
残る5試合、ビッグクラブとの対戦はユーヴェを残すだけだが、他の4試合がいずれも直接対決という微妙なカレンダーが待っている。100周年という記念すべき節目となる来シーズンは、なんとしてもセリエAの檜舞台で迎えたいところだが、あとは神のみぞ知る、というところであろうか。
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今シーズンの結果が残留と出ようと、残念ながら降格と出ようと、ヴィチェンツァというクラブの歴史は続いていく。トップチームの現有戦力はともかく、そこにどのように新たな選手を供給し続けられるかが、セリエAとBの狭間に生きるプロヴィンチャーレの生命線である。しかし、育成専門ともいえるユニークなセリエCのクラブ・ロディジャーニで長年の経験を持つサグラーモラだけに、もちろんそちらも抜かりはない。
「選手の売却益だけで財政を維持することが難しくなるとはいっても、プロサッカークラブである以上、これが柱であることに変わりはありません。逆にいえば、ビッグクラブにとって魅力のある選手を発掘し、育て続けられない限り、チームの戦力とクラブの財政のバランスを維持していくことはできません。マーケティングなどの事業は、力を入れるとは言っても、位置づけとしてはあくまでも補完的なものです。
私がヴィチェンツァに来て、最初に手をつけたのも育成部門の全面的な再構築でした。2年前には、わずか4チームにまで縮小されていたものを、来シーズンには11チームまで拡大します。すでに、ここから15kmほど離れたイゾラ・ヴィチェンティーノという町に20ヘクタールの土地を確保してあり、そこに育成部門を集約したスポーツセンターを建設する計画もあります。投資額は90億リラほどになりますが、地域の人々のためのフィットネス・クラブなども併設して、収益源のひとつとすることも織り込み済みです」
下位リーグや外国からの選手発掘もまた、育成部門の充実と並ぶ柱である。ヴィチェンツァの場合は、外国よりもむしろイタリア国内を重視しているという。事実、セリエBのトレヴィーゾから40億リラで獲得したルカ・トーニは、今シーズンの補強における最大のヒットだった。
「外国人の場合、イタリアという新しい環境に適応できるかどうか、という大きなリスクがあります。例えば今シーズン、クロアチア・ザグレブから獲得したトーマスは、代表に選ばれるほどの実績を持った選手であるにもかかわらず、レギュラーに定着するまでに4-5ヶ月が必要でした。一時は、このまま環境に適応できずに終わるのかと、本気で心配したほどです。一方トーニは、開幕からチームの柱として活躍しています。同じ移籍金を払うとすれば“ハズレ”を引く確率は、イタリア人の方がずっと少ないのではないでしょうか。
現在は、スポーツディレクターのリオネッロ・マンフレドーニアの下で、セリエBとC1を4人のスカウトがチェックしています。外国に関しては、代理人からの売り込みに任せている状態です。我々のような規模では、あれもこれもというわけには行きません。ポイントを絞ってそこに重点投資する方がずっと効率がいいのです」
ちなみに、その代理人任せでブラジルから獲得したジェーダ、デデの2選手(いずれも、カレカが会長を務めるカンピナスからの移籍)は、欧州サッカー界を揺るがせるパスポート疑惑に巻き込まれている。ヴィチェンツァはパスポートの不正取得に関与していないことが証明されたため、インテル、ラツィオ、ウディネーゼなどとは異なり、追求は受けていない。
さて、このインタビューを通して見えてきたのは、ヴィチェンツァというクラブの運営原理は、これまで見てきたいくつかのプロヴィンチャーレとは異なり、非常にビジネスライクなものだということだ。ブレシアやペルージャは、コリオーニ家やガウッチ家の私有物であり、その運営原理も言ってみれば個人商店に近いものがある。
一方、このヴィチェンツァは、ENICというホールディング・カンパニーのいち子会社であり、予算、利益、資産価値といった、まったくドライに割り切ることのできる客観的な価値によってコントロールされている。
すでに見たとおり、ENICの目標は、ヴィチェンツァ・カルチョという資産の投資価値を高めることにある。ということは、ゆくゆくはさらに上位、セリエA中位から欧州カップ進出をうかがうところまでを視野に入れているのだろうか?
「いや、それは不可能です。ヴィチェンツァは人口10万人。どう頑張っても、マーケットとして、クラブに400-500億リラを超える財政規模をもたらしてくれる可能性はありません。セリエAに定着しこの檜舞台で戦い続けるところが、限界でしょう。パルマのように、国際的な大企業がパトロンについてくれれば話は別ですが…。
残念ながら、チームの戦力は、クラブの財政規模にほぼ対応しているというのが、カルチョの世界の現実です。しかも、ビッグクラブとプロヴィンチャーレの格差は広がるばかり。ヴィチェンツァという都市の規模では、セリエAで戦い続けること自体、大きな誇りなのです」
だとすればENICも、ヴィチェンツァが安定した収益を挙げるようになり、資産価値が高まった時に、いい買い手が現れれば、クラブを手放すことになる可能性が高い。サグラーモラもそれは否定しなかった。
「サッカークラブのオーナーという立場は、非常に大きなストレスにさらされるものですし、これだけの経営規模になると、経済的なリスクも決して小さくはない。5年から10年をひとつのサイクルとして、異なる資本に受け継がれていくのはごく当たり前のことです。いってみればターンオーバーです。
サッカークラブというのは、結局のところ、その都市のものでしかありません。選手や監督は毎年のように変わりますし、経営者もそうやって変わっていきます。変わらないのは、チームカラーであり、サポーターや市民がクラブに注ぐ情熱だけです。ENICもそのことはよく理解しています。
ヴィチェンツァの会長ポストに地元の実業家、アロンネ・ミオラ氏を据えていることがその証拠です。会長職はいってみれば名誉職ですが、だからこそ、ヴィチェンツァ人が就かなければならないのです。ENICや我々は、あくまでもヴィチェンツァという都市から、このクラブを委ねられているだけに過ぎないのですから」■
(2001年5月8日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)