34歳を迎えた今シーズンはますます意気盛ん、というよりも長いキャリアでも指折りのシーズンを送っているアレッサンドロ・デル・ピエーロ(ユヴェントス)。最近はすっかりご無沙汰していますが、2001年から2003年にかけて、3度に渡って長いインタビューをする機会を得たことがありました。ちょうど27歳から29歳という、本来ならばキャリアのピークを迎えるべき時期です。
これはその1回目。諸事情あってこの時期はピークとは言い難かったわけですが、それも今や過去の話。30代も半ばにさしかかったキャリア最後の時期を、これだけ充実した形で迎えているというだけでも、これはもうご同慶の至り以外の何物でもありません。
せっかくなので、イントロ代わりに、インタビューの10ヶ月ほど前に『ストライカー』誌に書いた短いストーリーもつけておきます。
◆イントロ:デル・ピエーロ、復活への一里塚
半月板損傷、外側靭帯裂傷、後側十字靭帯裂傷、さらに大腿二頭筋と膝窩腱の接点の損傷。1998年11月8日、ウディネーゼ戦で相手DFと交錯したデル・ピエーロが左膝に負った怪我の内容である。太もも(大腿骨)とすね(頚骨、腓骨)を結ぶ関節である膝の「部品」のうち、無事だったのは前側の十字靭帯だけに過ぎないといえば、どれだけ深刻な怪我だったかが伝わるだろうか。
それから2年以上が過ぎた今も、デル・ピエーロは、かつての自分、正確にいえば、自己最多の21ゴールを挙げた97-98シーズン当時の自分を取り戻そうともがき続けている。
長いリハビリを終えて復帰した昨シーズン、彼のプレーにかつての閃きとキレはとうとう戻らなかった。相手を翻弄するはずのドリブルは簡単に阻まれ、何度シュートを打っても、枠を外すかGKに阻まれるかのどちらか。復活を期して望んだ欧州選手権でも、決勝戦で、2-0で試合を決める絶好のチャンス(GKとの1対1)を2度外し、フランスの逆転優勝をお膳立てしてしまう。
医学的には100%完治して久しい。デル・ピエーロを“天才”と“並みの一流選手”との境界線のこちら側にとどめているのは、頭の中のイメージと身体の動きの間にある微妙なズレと、そこから来るひとかけらの不安だけだろう。あとはほんの小さなきっかけさえあれば…。
今シーズンも、開幕戦でこそ、左45度からGKを巻いてファーポスト際に飛び込む美しい決勝ゴールを決めたものの、その後はぱっとしない内容の試合が続く。レギュラー落ちに続いて、故障で1ヶ月半の戦線離脱。やっと復帰した途端に、最愛の父の死という不幸にまで襲われた。
だがそのわずか数日後、バーリ戦に途中出場すると、ふっ切れたように生き生きとしたプレーを見せる。左サイドからドリブルで縦に深く持ち込むと、角度のないところから柔らかなチップキック。ふわっと浮き上がったボールは、ゆっくりと弾んでゴールネットを揺らした。
ふたつの拳を握りしめ、泣き叫ぶように喜びを爆発させるデル・ピエーロ。この雄叫びが、真の復活のプロローグとなることを祈りたいものだ。
(2001年2月26日/初出:『ストライカー』)
◆インタビュー:デル・ピエーロ「死と復活」
2001年9月28日金曜日、トリノ。秋晴れの暖かい昼下がり。デル・ピエーロは、インタビューが行われた彼のマネジメント・オフィスに、500mほど離れた自宅から、なんとヴェスパに乗ってやって来た。街中の移動はこれが一番なのだそうだ。明るいミーティングルームの椅子に腰を落ち着け、リラックスしたところで、対話を始める。
―このインタビューでは、あなたがあの怪我とその後の苦境から、どうやってここまで戻ってきたか、それを聞ければと思っています。
「それをひとことでいうと、毎年毎年、より多くの鍛錬を積み重ねることによって、ということになるかな。いずれにせよ、復帰してからこっち、コンディション的にはまったく問題ありませんでした。膝は100%元に戻っていましたからね。
でも、膝を新しく作り直したようなものだから、すぐには元のようにはプレーできない。一度壊れた車のエンジンを修理して、すぐに全開にして時速300kmで走ることはできないでしょ。まず慣らし運転をして、問題がないかどうかチェックして、徐々に回転を上げていく。ぼくにも、それと同じプロセスが必要だったんです」
―具体的にはどんな?
「怪我が完治して復帰するまでは9ヶ月でしたが、プレーが完調に戻るまでには、もっと長い期間が必要でした。身体全体の調整というか微妙なバランスをもう一度取り直さなければならない。
4ヶ月間も松葉杖で過ごしたことで、その後、自分としては普通にしているだけでも、身体の各部分や筋肉にかかる負荷が以前とは違っていて、それが全体のバランスを崩して、腰とか足の付け根とかいった特定の場所に負担をかけることもあるんです。そうなって新たな故障に見舞われないよう、いつもチェックしながら、少しづつ積み重ねていって、もうだいぶ前から、どんな種類の負荷をかけても大丈夫になりました」
―ということは、以前と同じように、自分の身体や動きに何の違和感も感じることなくプレーできるようになったということですよね?
「そうです。それはもうだいぶ前からそうですよ。でも今はもっと良くなっている。以前も、自分ではもう大丈夫だと思っていたけど、今はそれよりもさらに好調ですから」
―今シーズンは出足もすごく良かったし。
「そうですね。出足で結果が出ると、回りの雰囲気もよくなるからそれもプラスに働くし。回りの反応はすごく重要ですからね」
結果が出なければすぐに議論や批判の的になるのがカルチョの世界だ。ユヴェントスの、しかもデル・ピエーロほどの選手になれば、毎日その一挙手一投足、さらには言動まで、すべてが注目の的になっているといっていい。勝っている間は褒めそやされ持ち上げられるが、負け始めるとすぐに叩き落とされつつき回される。そんな環境の中で、彼はどんなリアリティを生きてきたのだろうか?
「ぼくはサッカーが好きだからサッカーをはじめたし、好きだから今も続けている。これがぼくを動かしている一番根本にあるものです。それはずっと変わらない。サッカー選手という職業には、とくにイタリアではすごく大きなストレスが伴うし、単に職業だからと割り切ってやるだけではとても無理なんじゃないかと思います。サッカーに対する情熱があるから、ストレスと戦いそれに打ち勝っていこうという強い力が湧いてくるんです。
もちろん、マスコミとか、試合に勝った負けたの喜びや辛さとか、サッカーの周囲にはいろいろな物事が存在していることも事実です。でも、一旦ピッチに立ったらそこにいるのはぼくたちと相手だけだし、そこにあるのは純粋なコンペティション、競争です。それは毎日の練習でも同じことです。
ちょっとしたミニゲームをやるときだって、だれも勝負に負けたくはない。勝負というシンプルなものにすべてが集約されてしまう。それがぼくたちにとってのサッカーであり、それに情熱を感じるからこそ、それを仕事にしている。8年前と比べれば、ぼくが考えていることは変わったし、背負っている責任もずっと重くなった。それは確かです。でも、自分にとってサッカーがなによりもまず情熱の対象であって、昔も今もそれがすべての原点ですよ」
―でも、年を経るに連れて責任もプレッシャーも重くなってくるし、いい年もあれば悪い年もあって、最初の何年かのように、順風満帆にはいかなかったですよね。
「それはチームの成績にも左右されますからね。最初の5年間は、毎年何かタイトルを獲ってきた。その後3年間、何のタイトルも獲れなかったら、叩かれるのはある意味で当然ですよね。
だからみんな、もちろん毎年そうなんだけど今年は特に、何としても勝ちたいという意欲であふれていますよ。いずれにせよ、外部の意見を左右するのは結果です。勝ったチーム、ゴールを決めた選手は常にそうじゃないチームや選手より高く評価される。本当は必ずしもそうじゃないんですが、ピッチの上で出る結果は、それを受け入れる以外にありません」
―あなたのキャリアを振り返ると、98年5月21日のチャンピオンズ・リーグ決勝(対ボルシア・ドルトムント)を境に、流れが大きく変わったように見えます。小さな故障もあって活躍できずタイトルを落とし、その故障がW杯にも大きく響いた。そしてその年の11月には左膝の大怪我…。あの試合の前後で、あなたにとって何が変わったのでしょうか?
「うーん。何も…(ためいきをひとつ)。いや、何も変わらなかった、といったら嘘になりますね。ぼくの経験のストックは、より幅広く、また豊富になったわけだし。でも、あれ以前にもあの後にも、大事なところで勝てなかったことはありました。2位に終わるというのは、あえてどのくらいとは言いたくありませんが、すごく悔しくて辛いことです。
でも、ぼくは常に重要なタイトルを争うところで戦ってきたし、そのことは誇れることだと思っています。そのうちいくつかは、それを勝ち取れるだけの運と能力に恵まれたし、残りは恵まれなかった。でも、これまでずっとぼくが示してきた継続性と安定感もまた、非常に重要な結果だと思っています。
一度だけ勝つことはそれよりも難しくありません。そのチャンスなら誰にでもある。宝くじに当たる可能性は誰にでもある。でも、4回も5回も続けて当たるのはすごく難しいでしょう。でもユーヴェは、1年を除けばいつもトップを争ってきた。ここ2年だって、セリエAでは2位でした。常に主役として戦ってきたんです。あと一歩のところで届きませんでしたが…」
―確かにユーヴェはいつもタイトルを争ってきた。まったく駄目だったのは、あなたが大怪我をしてリッピが辞任したあのシーズンだけでした。でも、ここ2年タイトルを続けて逃したことも事実ですよね。あるいは、あなたが言ったように、これまでの重要なファイナルでも勝ったり負けたりしてきた。その勝敗を分けるものはどこにあるんでしょう?
「勝敗というのは、いろいろな要素に左右されるものだと思います。勝利に対する欲望をどれだけ強く持っているか、相手と比べてどれだけ強いか、それに偶然にも左右されます。審判の判定ひとつで結果が違ってしまうこともよくある。リーグ戦と、チャンピオンズ・リーグのような一発勝負の決勝戦でも違います。
決勝戦というのは特殊な試合で、前評判が低いチームがかなりの確率で勝ったりしますから。そうやって考えると、何が勝敗を左右するか、ひとことで言い切ることはできないと思いますね」
―“結局最後のところで勝負を分けるのは運だ”とよく言いますが、逆に、そういうふうに言い切るのは不可能だということですか?
「もちろん運も重要な要素のひとつですよ。チームの、あるいはひとりの選手の運とか勢いとかが、勝負の分かれ目になることだってある。でもそれも、いろいろな要素の中のひとつでしかない。そうだ、ミネストローネの具みたいなものですよ。運はミネストローネの中のニンジン、ってわけです(笑)。能力は豆で、経験はキャベツだ(爆笑)」
勝敗の分かれ目はどこにあるか、といった、何かひとつの要素にすべてを象徴させようとする質問をするのは、わかりやすいドラマを求めるわれわれ観客の側の性癖でしかないのかもしれない。ミネストローネの喩えに1人でウケるデル・ピエーロの嬉しそうな表情の向こうにある、ピッチの上のリアリティは、きっと、ひとことで言い切ることなどできない、もっと複雑で重層的なものなのだ。
―フランスW杯の後、98年11月9日のウディネーゼ戦で左膝に大怪我を負いました。復帰してからも、最初は自分の感覚と自分のプレーとの間にギャップがあったのではないかと思いますが…。
「膝の怪我から復帰して、ぼくは事実上ゼロから自分を作り直さなければなりませんでした。もちろん、それまでの経験の蓄積やテクニック、プレースタイルといった、プレーヤーとしての財産がなくなったわけではありません。
でも、8ヶ月、9ヶ月の間それを使わずにいたから、忘れてしまったものもあった。それを少しづつ思い出していかなければなりませんでした。それは例えば、たくさん引き出しがついた大きなクロゼットの前に立っているようなものです。9ヶ月ぶりにそのクロゼットの前に立って、ひとつひとつ引き出しをあけながら、自分に役立つものを取り出して使うようになっていく感じ。
それは決して短い時間ではなかったし、すごく長かったわけでもないけれど、いずれにせよ大きな怪我をした後には避けられないプロセスだったというわけです」
―またゼロからはじめなければならないというのは、かなりヘヴィーなことだったのではないかと思いますが…。
「いや、そんなことないですよ。ぼくはこの怪我をうまく消化できたと思う。ゼロからもう一度というのは、復帰したときではなく、怪我をしたその時からわかっていたことだし、受け入れる覚悟はできていました。
いわば、怪我をした時から、新しい本が始まったようなものです。そこに新たな章を書き進めて行かなければならない。リハビリから始まって、毎日のエクササイズやトレーニングは、1日に1行や2行かもしれないけれど、その本を書き進めるという作業であり、今もそれが続いているということです」
復帰した最初のシーズンは、なかなか流れの中でゴールが決められなかった。何ヶ月か過ぎた頃からマスコミは、デル・ピエーロはもうかつての彼には戻れない、といった、かなり厳しいことを書き立てるようになる。それがまた新たな重圧となって彼の上にのしかかってきたであろうことは、想像に難くない。
「当時も今も変わらないことなんですが、はっきりしているのは、ぼくがいい試合、いいプレーをすれば、叩かれる可能性を最小限に抑えられるということです。その意味で、状況を変えるのは、まず誰よりもぼく自身だということですね。いいプレーができたときはそれでOK、そうじゃなかったときは仕方ない、アーメンといって祈るしかありません。筋が通った批判は受け入れるし、そうじゃないものにはもういちいち怒ったりはしません。頭にも来ない。無視するだけです」
―そういう中で2シーズン、自分をゼロからつくり直しつつプレーしてきたわけですが、完全に自分が戻ってきた、プレーヤーとしてすべて元通りのデル・ピエーロになれたという確信を持てたのは、いつのことだったんでしょう?
「父が死んだ時からです。それを境に、多くのことがずっと単純に思えるようになりました」
―ということは、精神的なところに鍵があったということでしょうか?
「たぶんそうなんでしょうね。困難に立ち向かうときの姿勢が変わったんだと思います。サッカーをしている中での困難なんて、どんなものでも父の死に比べたら大したものではありません。
以前は、困難にぶつかるたびにそれが山のように見えていたけれど、今は小さなハードルくらいにしかみえない。その気になりさえすれば乗り越えられるものだと思えるようになったんです。父は最後にそれを教えてくれました。ぼくのことを思ってくれたからこそ、それを気づかせてくれたのだと思っています。今のぼくは、より大きな安心感、空の上の父から守られているという感覚があります」
―この辛い経験を通じて、あなたの中で何が変わったのでしょうか?
「確かに辛い経験でした。父の側にいた家族にとっても、厳しく苦しい日々でした。何ヶ月も前から、父が助からないことを知っていながら、それを彼に気づかせないようにして、人生の最後に少しでも多くの喜びを味わってほしいと願いながら過ごしたからです。
いま自分がこの社会の中で担っている立場とか、自分が持っているお金とか、そういうものでは解決できないことも残念ながら世の中には少なくない。ぼくは医者に支払うたくさんのお金を持っていたけれど、父の命を救うことはできなかった。そんなものがあってもなくても、人生の真実と向き合うべき時には、向き合わなければならないんです。
でも、目の前の小さな問題ならば、それをもっとシンプルに捉えるだけでそれが解決する、いや、問題自体が存在しなくなることだって少なくはありません。父の死そのものは、今でも完全には受け入れることができずにいます。父がもうこの世にいないなんて間違っているとしか思えない。でも、現実がそうならばそれを受け入れ、自分のやっていることに誇りを持って生きていく以外にありません」
―家族の存在は、あなたがここまでたどり着く上で、どれだけ重要だったのでしょう?
「とても重要でした。13歳の時に、サッカーのために家を離れるというぼくの選択を受け入れ、応援してくれたのですから。反対もしなかったし、条件もつけなかった。ぼくが夢にチャンレンジするのを、最初からずっと支えてくれたんです。そしてその夢は実現しました。
それにはぼくの実力もあれば、運もあった。でも、どんなときでも、辛いときにもずっと家族がそばにいてくれたから、今のぼくがあるんです」
父ジーノ氏の死からわずか数日後、バーリ戦に途中出場したデル・ピエーロがゴールを決めたときの表情は忘れることができない。ボールがゆっくりと弾んでゴールネットを揺らした直後、ふたつの拳を握りしめ、泣き叫ぶように天を仰いで雄叫びを上げる。彼のプレーに何かがふっきれたような鋭さが戻ったのは、確かにこの時からだった。
―大怪我をはじめ、その後の様々な重圧にもかかわらず、あなたはここまで戻ってきた。自分を強い人間だと思いますか?もしまだ弱いところがあるとすれば、それはどこだと思いますか?
「ぼくに言えるのは、ここまでの間にたくさんの、重要で厳しい経験を積み重ねてきて今の自分があるということです。その経験がぼくの視野や可能性を広げてくれたのだと思っています。
精神的に、あるいは他の意味でどれだけ強い人間であることができるのかはわかりませんが、自分には才能や資質があるとは思っています。でも、これでもう完璧だとか十分に経験を積んだとか、そういう風に思った次の瞬間に、人生からひどいしっぺ返しを喰らう。毎日の努力の積み重ねによってしか前に進むことができないというのが人生の真実だと思うし、ぼくはそういう風に考えるようにしています」
―勝利やタイトルをつかむために、自分にはまだ何か足りないものがあると思いますか?もしあるとすればそれは何なのでしょう?
「ぼくは、運に関してはまだまだ貯金があると思っています。これまで勝ち取ってきたタイトルはそれに見合うだけの働きをしてつかんだものだと思っていますから。重要なタイトルを勝ち取りたいという気持ちはすごく強い。それが実現できるかどうかは、実力、努力、運、そしてどれだけ強く勝ちたいと望むかにかかっていると思っています」
このインタビューの数日後、ユヴェントスで2年間、監督としてデル・ピエーロを指導し続けたカルロ・アンチェロッティに話を聞く機会があった。勝つために彼に足りないものは?という、同じ質問をぶつけてみると、帰ってきたのは次のような答えだった。
「デル・ピエーロは選手として成熟の域に達しつつあります。常に、チームの組織の中で自らの持つクオリティを発揮することを意識しながらプレーしている。自己中心的なところはないが、アタッカンテに必要なエゴイズムはちゃんと備えている。人間的にも、プレーヤーとしても申し分ない。
大きなタイトルを勝ち取るために、彼に欠けているものは何もありません。これまでのチャンスで活躍できなかったのは、たまたま悪いタイミングで故障が巡ってきたせいでしかありません。今度、いい状態でワールドカップを迎えることさえできれば、主役として活躍する条件はすべて整っていますよ」
―あなたがセリエAにデビューしてから今までの間に、サッカーも変わったし、デル・ピエーロという選手も変わったと思います。それぞれどのように変わったと思いますか?
「サッカーは、もう少し以前からだと思いますが、ピッチの上ではよりスピーディになりましたね。ピッチの外ではよりストレスが大きくなり、よりマスコミで議論されたり叩かれたりするようになり、ビジネスの利害が入ってくるようになり、むしろこっちの方で大きく変わったような気がします。
ぼく自身ももちろん変わりました。変わったというよりも、より完成されたと言った方がいいかな。精神的な面でいえば、ユーヴェのようなビッグクラブで、大きな責任を背負いながらプレーし、大きな選択に直面してきたという経験は貴重な財産になっています。肉体的にも、27歳のいま、19歳の少年だった当時と違うのは当然のことです。
筋肉もついて体重も少し増えたし、持っていた資質や技術をより伸ばして完成に近づけようとしてきました。以前、若い頃は、1試合に一度か二度の、テクニックやファンタジーアがあふれる派手なプレーをするのが楽しくて、それを見せられればそれで自分も回りも満足していましたが、今はそれではまったく不十分です。
むしろ、それはそれで意識しながらも、コンスタントにチームの中で機能し、その時々で最適な選択をしながらプレーすること、必要があればフリーランニングでスペースを作ったり、シンプルなパスを出したり、すべての可能性に360度の視野を開いてプレーすることを心がけています」
―以前のインタビューで“ゴールがすべてではない”と言っていましたね。でも最近は何度か“ゴールを決めなければ意味がない”というコメントも目にしました。
「ノー。そうは思ってはいません。外部の人々の評価基準にとっては、確かに“ゴールがすべて”です。でも、ぼく自身の評価基準の中ではそんなことはまったくありません。
あまりいいプレーができなかったけれどゴールをひとつ決めて、翌日の採点で7点をもらったことは何度もあります。OK。でもぼくにとってはまったく7点に値する試合じゃないし、その評価が現実を反映しているとも思わない。もちろん、ゴールを決めることには、他のプレーとはレベルの違う喜びがあります。
でも、ぼくの評価基準はゴールだけじゃない。それは以前からずっと変わっていないし、ぼくがこれまで勝ち取ってきた結果は、自分の考えにしたがってプレーを追求してきた成果だと思っています」
―最後に、代表の話を聞かせて下さい。ユーロ2000では、最後の最後でフランスに敗れてしまいました。あそこでイタリアが勝てなかったのは何故か、フランスの強さはどこにあったのか。あなたはどう思っていますか?
「だから、様々な要素のミネストローネですよ(苦笑)。すごくたくさんの要素が絡み合った結果、ああいうことになってしまった。
我々が2点目を取れなかったこと、ディフェンスのいくつかのミス、試合に向かう姿勢という点でも完全無欠ではなかったかもしれないし、ロスタイムを2分も多く取った審判の存在もあった。運もあったし、相手の実力もあった。それらすべての結果として、フランスが勝ちイタリアが負けた。そういうふうにしか説明できないものです」
―フランスのシンボルといっていい選手はジダンです。彼は代表ではつねに主役として勝利に貢献してきました。まだあなたは経験していない役回りです。彼の方がより“勝者”であるといってもいいと思います。その違いはどこにあると思いますか?
「クラブのレベルではずっと一緒にプレーしてきて、同じタイトルを取り、同じタイトルを落としてきたわけだから、その点では違いはないと思います。
でも、代表でワールドカップを勝ったという事実は、その反響度がまったく違う。彼らはホームで戦って、勝利を勝ち取った。ジダンがそれを通じて、知名度とか名声とかいう点でも、非常に大きなものを得たことは間違いありません。世界中の人々が注目する大会で勝利したという事実は、ぼくたちがクラブで勝ち取った勝利よりも、ずっと大きな評価や反響をもたらしたということです。
それと比べるとぼくは、ワールドカップを勝ったわけじゃないし、その点だけでも出発点からハンデがある。評価や名声の点で差がつくのは当然だし、それはそれで理にかなったことだと思ってますよ」
―あなたはこれまで、3度の大きな大会を、力を発揮できないまま終えています。次のワールドカップには期すものがあると思いますが…。
「もちろんです。今度こそは、イタリアがこの60年間たった一度しか成し遂げていない偉業を達成したい、達成できると強く思っていますし、それにできる限り貢献したいと思っていますよ」■
(2001年10月11日/初出:『Number PLUS』)