7月26日、パウロ・ディバラのローマ加入プレゼンテーションの舞台となったEUR地区の「四角いコロッセオ」こと労働文明館。もう20年以上前になりますが、『地球の歩き方』が出していた「トラベルフロンティア」という雑誌のローマ特集に、このEUR地区について寄稿したテキストがあるので、この機会に蔵出ししときます。
ローマ旧市街の南端、サン・パオロ門から南に約5km、地下鉄B線のはずれにその街はある。きっちりと都市計画された緑豊かな街区。まったく不統一なデザインで建てられた現代的なオフィスビルの間に、古代ローマのモニュメントから様々なディテールを取り入れた、巨大な、しかし妙に直線的でモダンな白い建築群がそびえる不思議な街。それがEUR(エウル)だ。
「EURというのは、1942年に開催されるはずだったローマ万国博覧会の略です。この街は本来、その会場として計画されたものだったんですよ」と、案内役を引き受けてくれたアルド・ブラッチャーニ氏。
「当時ファシスト独裁政権を敷いていたムッソリーニと、その下でこの街を計画した建築家ピアチェンティーニは、恒久的な施設として博覧会のパヴィリオンを建て、終了後はそれをそのままローマの新都心にしようという斬新かつ雄大な構想を持っていました。
1939年に建設が始まりましたが、41年に第二次世界対戦が勃発すると間もなく、博覧会そのものが中止。造りかけの街は放置され、戦後は廃墟に近い状態でしたが、50年代になって、官庁・ビジネス街として街区が完成され、今は副都心的な役割を担っています」
古代から続くローマの歴史と伝統を、そしてその後継者としてのムッソリーニの偉大さを世界に示すために、EURの建築群は、純白の威容を誇る記念碑的建造物でなければならなかった。博覧会を口実に、古代ローマのフォロを現代に蘇らせようと目論んだ、と考えればわかりやすい。
「古代建築と現代建築を融合した壮大なモニュメント。これがピアチェンティーニの最大の狙いだったというわけです」
その中でも最も巨大で目を引くのが労働文明館だ。“四角いコロッセオ”と(皮肉も込めて)人々から呼ばれていることからも、どこから着想を得て設計されたのかは一目瞭然だ。
興味深いのは、壁面に彫られた一文。直訳すれば「詩人であり芸術家であり聖人であり思索家であり科学者であり航海者であり移民である民」。
これは、万国博覧会で世界に誇るはずだった、ローマの、そしてイタリアの民とその文明を象徴し賞賛する言葉である。イタリア人を評する言葉には数あれど、誉め言葉としてなら、これ以上に的を射た表現を知らない。
「EURの都市計画を支配するのは強いシンボリズムです。都市の縦軸はC.Colombo通り。横軸には何本かの通りが走っていますが、その両端には対応する2つの建築物が建っているんです。例えば、労働文明館の反対側には会議場がある。これは、フォロ・ロマーノの両端にあるコロッセオと元老院を象徴するものです」
ところで、筆者のイタリア人の友人は以前、「ローマで一番醜い場所を見せてあげる」といって、EURを案内してくれたことがある。ローマの人々にとってこの街は、できれば記憶から消し去りたいファシズム時代の思い出を象徴する「ムッソリーニの誇大妄想が生みだした悪夢」でもあるらしいのだ。この話をアルド氏にすると、彼はこう応えた。
「それはひどい言いぐさですね。私はもちろんファシストではありませんし、ファシズムにも反対です。しかし、政治の文脈を離れ、ひとつの建築としてEURを見た時、これを計画したムッソリーニとピアチェンティーニの構想の雄大さと偉大さを認めないわけには行きません。
もし戦争で計画が中断しなければ、この街区はすべて、古代と現代が融合した白く壮大な建物が立ち並ぶ、20世紀建築の金字塔になっていたはずです。しかし、計画のうち実現したのはほんの30%に過ぎませんでした。残念なことです」
それは確かに壮観だったに違いない。しかし、ファシズムが描いた未来が幻に終わったように、古代と現代が融合した未来都市・EURもまた幻でしかあり得なかった、とはいえないだろうか。
そのかわり、今そこにあるのは、普通のオフィス・ビルが立ち並ぶ人工的な新都心の一角に、突然、「現代風に歪んだ古代ローマ」がそびえるシュールでキッチュな異形の、そしてできそこないの街。未来都市よりもこちらのほうがずっと人間的でローマらしい、と思うのだけれど…。
(2000年6月30日/初出:『トラベルフロンティア』)