2016年4月2日夜、チェーザレ・マルディーニ氏が84歳で亡くなりました。追悼の意を込めて、そのマルディーニと息子パオロを含むミランのキャプテン5人の系譜をたどったテキストを。合掌。

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「この半世紀にミランのキャプテンを務めたのは、たった5人の選手だけだ。そのいずれもが、このクラブのシンボルでありバンディエーラ(旗印)だった」。

ミランの歴史を語るときに、必ずと言っていいほど繰り返されるフレーズである。その5人のキャプテンとは、ニルス・リードホルム、チェーザレ・マルディーニ、ジャンニ・リヴェーラ、フランコ・バレージ、そしてパオロ・マルディーニ。いずれも、カルチョの歴史に大きな足跡を残した偉大なプレーヤーである。
 
ミランは、カルチョの黎明期である1907年を最後に、ふたつの世界大戦をまたいだ20世紀前半を通じて、一度もスクデットを手にすることができなかった。それが、1950-51シーズンを皮切りに、50年代だけで4度のスクデットを獲得し、現在に至る繁栄の礎を築くことになる。その間を通して、ロッソネーロのシンボルとして君臨したのが、ニルス・リードホルムだった。いわば、ミラン中興の祖ともいうべき存在である。

ニルス・リードホルム

1922年、スウェーデンのヴァルデマルスヴィク生まれ。子供時代は、やせっぽちでそばかすだらけの、スポーツには縁がありそうもない少年だったが、10代を通してスキー、陸上競技、ボクシング、レスリング、そしてサッカーと様々なスポーツに取り組み、20歳を迎える頃には、優秀なアスリートとして複数の競技で実績を残していた。その中からサッカーを職業として選んだのは、第二次大戦直後の1945年、23歳でのことだった。

名門IFKノルチェーピンで頭角を現し、1948年のロンドン・オリンピックではスウェーデン代表の中心選手として金メダル獲得に貢献。翌49年には、クラブでも代表でも盟友だった偉大なFWグンナー・ノルダールの後を追って、もうひとりの代表のチームメイト、グンナー・グレンとともに、27歳でミラン入りを果たす。今も語り継がれるトリオ「グレ・ノ・リ」の誕生である。

「ポンピエーレ(消防士)」ことノルダールがパワフルなストライカー、「プロフェッソーレ(教授)」ことグレンが華麗なファンタジスタだとすれば、「バローネ(男爵)」と呼ばれたリードホルムは、理知的なピッチ上の指揮者だった。61年に39歳で引退するまで通算13シーズン(359試合81得点)、当初はインサイドセンター、後にセンターハーフ、30代後半にはリベロとして常にチームの中核を担い、ピッチ上の監督として振る舞った。

左右両足の柔らかいボールタッチ、背筋の伸びたスムーズな身のこなし、正確無比のパスワーク、卓越した戦術眼、強力なヘディングとミドルシュート——。ミッドフィールダーとしてのあらゆる資質を備えた完成度の高いプレーヤーであり、自らそれを認めてはばからなかった。

引退後、現役時代を振り返って語った、ユーモアとアイロニーのセンスに満ちたエピソードのいくつかは、今なお広く語り継がれている。

「ある日のサン・シーロで、私がパスをミスしたら、スタンド中から『オー』という声が上がったことがあった。それまで2年間、一度もミスをしていなかったからね」

「私のシュートは凄かったよ。一度など、クロスバーに当たったボールが、そのまま味方のペナルティーエリアまではね返ってオウンゴールになったほどだ」

「ファウルを犯して相手からボールを奪うのはあまりに簡単だ。私はファウルなどしなくともボールを奪うことができたよ。だから10年間、一度も警告を受けたことがなかった」

この最後のエピソードが示す通り、イタリア的なメンタリティとはまったく異なる模範的なスポーツマンシップとフェアプレー精神の持ち主でもあった。

53年にグレンがフィオレンティーナに、56年にノルダールがローマにそれぞれ去った後も、ミラン一筋でプレーを続ける。1958年に母国スウェーデンでのワールドカップを迎えた時にはすでに36歳になっていたが、キャプテンとしてチームを決勝まで導いた。

決勝では17歳のペレを擁するブラジルに2-5で敗北を喫したが、リードホルムは「あのスウェーデンよりも強いチームは見たことがない」と断言し続けたものだ。「私が先制ゴールを決めてリードしていたんだ。ところが酷いファウルを受けて、退場しなければならなかった。ブラジルが逆転したのはその後のことだよ」。

引退したのは、39歳を目前に控えた61年のこと。直前の60-61シーズンにもまだ、リベロとして23試合に出場して3得点を挙げていた。「続けるつもりならまだ続けることはできた。でも監督ライセンスを取るための年齢制限が40歳だったから、引退せざるを得なかった」。

リードホルムは監督としても、ミランとローマでスクデットを獲得するなど、カルチョの歴史に重要な足跡を残すことになる。だがそれはまた別のストーリーである。

チェーザレ・マルディーニ

そのリードホルムからキャプテンマークとリベロのポジションを引き継いだのは、DFのチェーザレ・マルディーニ。現キャプテン・パオロの父親であり、98年のフランス・ワールドカップではイタリア代表監督も務めた名伯楽である。

チェーザレは、1932年、イタリア北東のはずれ、スロヴェニアと国境を接するトリエステで生まれた。地元トリエスティーナの育成部門で育ち、20歳でセリエAにデビューすると、その2年後にはミランからスカウトされる。180cmを超える当時としては長身の体躯に、エレガントな身のこなしとDFとしては傑出したボールスキルを持ち、移籍したシーズンにはすでに、まだ22歳という若さにもかかわらずレギュラーのストッパーとして、スクデット獲得に貢献した。

自陣のペナルティエリアでボールを持ち、敵FWに迫られても、フェイントひとつで軽くそれをかわし、前線に正確なロングパスを送り込む。そんな余裕に満ちた優雅なプレーぶりから、サン・シーロのサポーターは「チェザローネ・イル・グランデ」(偉大なるチェーザレ大人)と彼を呼んで愛した。

5年ほど前、筆者がインタビューした時にも「自慢じゃないが、私は何でもかんでもラインの外に蹴り出すようなディフェンダーじゃなかったよ。ディフェンダーとしてはテクニックがある方だったからね」と誇らしげに語ってくれたものだ。だが、時にはそのテクニックへの過信とナルシシズムが仇となり、ボールを奪われてピンチを招くことがあったのも事実。ミラニスタたちは自信過剰がもたらした彼のそんなミスを「マルディナータ」(マルディーニ的振舞い)と呼び、笑って許した。

50年代後半を通し、ストッパーとしてミランのディフェンスを支え続け、60-61シーズンを最後にリードホルムが引退するとリベロに転身する。リベロ、そしてキャプテンとして臨んだ初めてのシーズンである61-62シーズンには、ネレオ・ロッコ監督の下で自身にとって4度目となるスクデットを勝ち取った。

チェーザレもリードホルムと同様、先頭に立ってチームを引っ張るというよりも、一歩引いたところから冷静に状況を見つめ、適切なアドバイスを送ることで、チームメイトに落ち着きと自信を与える、静かなるキャプテンだった。

翌62-63シーズンは、チェーザレにとってキャリアの頂点とも言うべきシーズンになる。ミランにとっても、そして自身にとっても4度目のチャレンジとなった欧州チャンピオンズカップで遂に優勝を勝ち取り、イタリア人として初めて欧州王者に与えられる銀のトロフィ(当時はまだ」ビッグイアー「ではなかった)を、キャプテンとして天に掲げたのだ。

「黒豹」エウゼビオを擁するベンフィカとの決勝戦は、フットボールの殿堂ウェンブレーに6万8000人の観客を集めて行われた。エウゼビオのゴールで先制されたこの試合、ジョゼ・アルタフィーニが決めた同点と逆転のゴールをお膳立てしたのは、まだ19歳のジャンニ・リヴェーラだった。この活躍でイングランドのメディアから「ゴールデンボーイ」というニックネームを授かることになった天才ファンタジスタは、79年に引退するまで20年近くにわたって、ミランのシンボルとして君臨することになる。

チェーザレは、この後も34歳になる65-66シーズンまで、最後尾からチームを支え続ける。トップレベルでプレーを続ける限界を感じ、恩師ロッコ監督に呼ばれてトリノで現役最後のシーズンを送るためにミランを去った時、リヴェーラは23歳。すでにレギュラーとし5シーズンを過ごして、名実ともにチームの看板選手となっていた「ゴールデンボーイ」は、キャプテンマークを受け継ぐ準備をすべて整えていた。
 

ジャンニ・リヴェーラ

ジャンニ・リヴェーラは1943年、ミラノから南に80kmほど下ったアレッサンドリアで生まれた。幼い頃から天才の誉れ高く、弱冠15歳で地元のクラブ・アレッサンドリアからセリエAにデビューを飾る。続く59-60シーズンには、すでにレギュラーとして25試合に出場、6得点を挙げた活躍に目をつけたミランにスカウトされることになる。

デリケートで正確なボールコントロールと長短のパスを高精度で蹴り分けるテクニック、そして、プレーの展開を瞬時に読み取る卓越した戦術的インテリジェンスを備えた、典型的な、そして理想的な「10番」だったリヴェーラは、17歳ですでにミランのレギュラーとして30試合に出場し、大器の片鱗をうかがわせていた。この60-61シーズンは、リードホルムにとって現役最後の年。若きタレントは、20歳以上も年上の偉大なキャプテンから、ミランというクラブの将来を背負うべき存在として、多くの教えを受けた。

リヴェーラにとって、唯一の弱点は、決して強靭とは言えないフィジカルだった。175cm、68kgという体躯は、当時の基準でも貧弱であり、またスピードや持久力といったアスリートとしての能力も決して高いとは言えなかった。センスとテクニックにおいては当時のヨーロッパでも傑出した存在でありながら、そのキャリアを通して、特にイタリア代表での起用法をめぐって、しばしば世論を真っ二つに割る存在だったのもそのためである。その意味では、30年後のロベルト・バッジョと似たような存在だったといえるかもしれない。

リヴェーラとバッジョに違うところがあるとすれば、それはリヴェーラがミランというひとつのチームのシンボルとして、長いキャリアを全うしたことだろう。62-63シーズン、19歳にしてチャンピオンズカップ獲得に大きな貢献を果たしたことは、すでに見た通り。そして、マルディーニからキャプテンの座を受け継いだ60年代後半には、ロッコ監督の下でミランに数々のタイトルをもたらした。

67-68シーズンには、ミランにとって通算9度目となるスクデットとカップウィナーズカップ、そして翌86-69シーズンには、チャンピオンズカップとインターコンチネンタルカップ。さらにこの年には、イタリア人として初めてバロンドールを獲得し、ヨーロッパ最高の「10番」(世界最高はペレだった)という評価をほしいままにした。

リヴェーラの幸運は、汚れ仕事を一手に引き受けてくれる、文字通り「片腕」と呼ぶべきパートナーがいたことだ。その名はジョヴァンニ・ロデッティ。運動量と激しいマークを持ち味とする「メディアーノ」(守備的MF)だったロデッティは、2人分の運動量で敵を追い回し、リヴェーラから守備の負担を取り去った。

ミランとリヴェーラにとって、1970年代は、ユニフォームの胸に「星」をつける権利をもたらす通算10度目のスクデットを、追い求めては挫折した10年間だった。70年にロデッティがチームを去った後も、リヴェーラは守備の負担を引き受けてくれるメディアーノに助けられながら、自らの創造性を発揮し攻撃を演出することだけに専念したが、ロデッティほどの「片腕」に巡り合うことは二度となかった。

カップウィナーズカップを勝ち取りながら、その4日後に「運命のヴェローナ」によって10回目のスクデットを逃したミランは、度重なるオーナーと経営陣の交代もあって、混迷の時代に入って行った。30代となったリヴェーラは、以前と変わらずサポーターからは絶対的なシンボルとして崇められていたが、経営陣や監督と折り合いが悪くなることが多くなって行った。

そして1975年夏、対立していた当時のオーナー、アルビーノ・ブティッキが経営権を手放すことを表明すると、リヴェーラはクラブの経営権を自らの手に収めることを決意する。ミラノの財界から見つけ出した支援者を傀儡として会長の座につけると、自らはひとりのプレーヤーとしてピッチ上にとどまりながら、クラブの経営にも携わることになった。現役選手が自分のプレーするクラブを所有するというのは、まったく前代未聞の出来事だった。だが、ミランにおけるリヴェーラは、それが許されるほどに特別な存在だったのだ。

だが、選手兼経営者という仕組みは、残念ながら(当然ながら、というべきか)機能しなかった。76-77シーズン、ミランは深刻な危機に陥り、最後の最後でセリエB降格を回避するのがやっとという1年を送る。リヴェーラは経営者という立場を離れてひとりの選手に戻り、キャリアの最終章を過ごすことになる。

そして現役生活最後となった78-79シーズン、かつての主将リードホルムに率いられたミランは、11年ぶり通算10度目となる「星のスクデット」を勝ち取ることになる。60年代の栄光と70年代の混迷、2つのディケイドをミランの象徴として歩んできた35歳の「ゴールデンボーイ」は、これ以上ない形で自らのキャリアに幕を引いたのだった。
 

フランコ・バレージ

ミランが「星」を手に入れたこの78-79シーズン、弱冠18歳でリベロのレギュラーに抜擢され、全試合に出場してディフェンスを支えたのが、育成部門生え抜きの若者フランコ・バレージである。偉大なキャプテンの最後のシーズンと、将来その系譜を継ぐことになる若きタレントのデビューが重なり合うという巡り合わせは、リードホルムとリヴェーラのそれを思い起こさせる。監督としてバレージをデビューさせたのが、他でもないこのリードホルムだということになれば、この巡り合わせも偶然には見えなくなってくる。

フランコ・バレージは1960年、ミラノのお隣りブレシア県トラヴァリアートで生まれた。地元のアマチュアクラブでサッカーを始め、15歳の時に2歳年上の兄ジュゼッペと共に、インテルの入団テストを受ける。テクニックでは弟よりも劣るが高い運動能力を持っていた兄は合格したが、背が低くやせっぽちの弟は、体格がプロ向きではないという理由で不合格となった。

だが翌年、ミランの入団テストを受けて合格すると、それからわずか2年でリードホルム監督によってトップチームに引き上げられ、17歳でセリエAデビューを飾ることになる。176cm、70kgというディフェンダーとしては小柄で線の細い体型もあって、年上のチームメイトたちからは「エル・ピシニン」(ミラノ方言で「ちびちゃん」の意)と呼ばれ可愛がられた。

体格的なハンディキャップをカバーしたのは、プレーの状況を瞬時に読み取る鋭い戦術眼、そして爆発的なスピードである。どんなに快速を誇るFWも、先手を打ってスタートを切りこれで振り切ったと確信したその時に、背後から迫り追いついたバレージが身体をこじ入れてくるのを感じなければならなかった。正確な両足のテクニックとキック力も相まって、バレージは20歳にしてすでに、イタリアの将来を背負うリベロと呼ばれるようになっていた。

だが、そのキャリアは必ずしも順風満帆ではなかった。「星のスクデット」の翌年、ミランは闇サッカー賭博に絡んだ八百長問題に関係し、セリエB降格処分を受ける。その後も、一度復帰した後に今度は「実力」でのB降格、さらにクラブの経営破綻と、キャリアの前半が、80年代前半の「ミラン暗黒時代」と重なるという不運に遭遇したからだ。

さらに、二度に渡る膝の故障もあって、ベルルスコーニが会長となった86年、26歳を迎えていたバレージは、まだその才能を完全に開花させることができずにいた。イタリア代表へのデビューは果たしていたものの、レギュラー定着からはほど遠く、86年のワールドカップの招集メンバーからも漏れている。

転機は、アリーゴ・サッキの監督就任とともにやってきた。ゾーンディフェンスの導入とともに、バレージはリベロではなくディフェンスラインを統率するセンターバックという役割を担うようになる。「サッキのミラン」の最も強力な武器のひとつだった、極端に高いラインによる頻繁なオフサイドトラップは、プレーの流れを瞬時に読み取る優れた戦術眼と卓越したリーダーシップを備えた、バレージというリーダーがいたからこそ可能になったといえるだろう。

そのカリスマ性は審判にさえも影響を与えずにはいなかった。オフサイドトラップを仕掛けたバレージがさっと右手を上げてアピールすると、副審も思わずオフサイドの旗を上げてしまうと言われたほどである。

バレージは、ミランが世界最強を誇った「サッキとカペッロの時代」、80年代後半から90年代半ばまでのほぼ10年間を通して、偉大なキャプテンとしてミランに君臨することになる。その実直な人柄とサッカーに取り組む真摯な姿勢は、マルディーニ、コスタクルタ、アルベルティーニといった、ミラン生え抜きの後輩たちにとって、何をおいても従うべき模範だった。

1997年、ミランで20年間、セリエA、B通算532試合という輝かしいキャリアを残して、バレージは現役を引退する。ミランはその背番号6を永久欠番にして、ミラン一筋を貫いた偉大なるキャプテンの功績を賛えることになる。
 

パオロ・マルディーニ

 
そのバレージの後を継ぎ、現在に至るまで主将の座にあるのが、パオロ・マルディーニである。彼に関しては、ここで改めて言葉を費やすまでもないだろう。60年代前半の偉大なキャプテン、チェーザレ・マルディーニの息子にして、その父をも乗り越えた「世界最高のディフェンダー」。サッキ、カペッロ、アンチェロッティという3人の監督が築いた3つの黄金時代すべてで主役を演じてきた「イル・カピターノ」(ザ・キャプテン)は、39歳を迎えた今シーズン、ほぼ間違いなく現役最後となるであろうシーズンを送っている。

因縁を感じさせるのは、そのパオロを16歳でセリエAにデビューさせた監督もまた、リードホルムだったという事実だ。最初はプレーヤー、その後は監督として、半世紀以上に及ぶミランの「キャプテンの系譜」すべてに関わってきた彼こそが、ミランというクラブの歴史を、本当の意味で象徴する人物なのかもしれない。

ニルス・リードホルムは、監督の仕事も引退した90年代以降は、ピエモンテ州の小さな村に所有するシャトーで、もうひとつのライフワークだったワイナリー経営に専念、悠々自適の生活を送っていたが、去る11月5日、85歳でこの世を去った。心から冥福を祈りたい。■

(2007年11月6日/初出:『サッカーベストシーン14:ACミランのすべて』コスミック出版)

By Michio Katano

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。