冬休み読み物シリーズ、お正月なので大物をひとつ。2001年に朝日新聞出版社から出た翻訳書『NAKATA』、とその文庫判(2003年)に「訳者あとがき」として書いた、中田英寿についてのかなり長いテキストです。
イタリア語版の原書は、1998年夏のペルージャ移籍から、ローマでスクデットを勝ち取ることになるシーズンの12月までの2年半で終わっているのですが、書籍版のあとがきはその後半年間(00-01シーズン末まで)、その2年後に出た文庫版のあとがきはパルマ移籍後最初の2年間の歩みを、ざっくりとまとめたもの。こっちがメインです。
これを読んで興味をそそられた方、ノスタルジーを刺激された方は、ぜひ『NAKATA』(朝日文庫)をご一読ください。しかし、もう10年以上も前の話なんですね。

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書籍版あとがき(2001年7月)

本書は、2001年1月にイタリアの出版社Limina Edizioniから出版された『Un giapponese nel pallone -diario italiano di Hidetoshi Nakata-』の抄訳である。

著者のステーファノ・ボルドリーニは、イタリア最大の発行部数を誇る日刊紙『コリエーレ・デッラ・セーラ』などに記事を寄せている、ローマ在住のジャーナリスト。20年近いスポーツ記者歴を持ち、本書以前には『ローマの名の下にIn nome della Roma』と題された、ASローマに関する小事典を出版しているほどのローマ通でもある。

この本は、その著者が、1998年7月のペルージャ移籍から2000年12月のローマ・ダービーまで、2年5ヶ月にわたる“中田英寿・イタリアでの日々”を、イタリアでの新聞報道を骨格にしつつ、様々な情報を付加して再構成した、ひとつのドキュメンタリーである。

現場の空気を肌で知るスポーツ記者ならではの視点やニュアンスがそこここに散りばめられており、いわば“イタリアが見た中田像”の集大成とでもいうべき、充実した内容になっている。

この本の主人公、中田英寿は今、喧噪とカオスの街ローマから400Kmほども離れた、北イタリアの瀟洒で落ち着いた小都市パルマに腰を落ち着け、“ジャッロロッソ”(黄色と赤)ではなく“ジャッロブルー”(黄色と青)のユニフォームを身につけてプレーしている。

このあとがきを書いている時点では、まだプレーシーズンのトレーニングに励んでいる段階だが、“パルマの10番”は、まるで何年も前からそこにいるように自然な、そして堂々とした振る舞いで、早くも強い存在感を放っているようだ。やっと自分の居るべき場所を見出したかのようにも見える。

しかし、そこに至るまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。本書がカバーしているのは昨年一杯までの時期だが、それからスクデットという華々しいタイトルによってシーズンが幕を閉じるまでの約半年間、中田はおそらく喜びよりも苦悩の方がずっと多い、困難な日々を送らなければならなかったからだ。
 
クリスマス休みが終わり、2001年に入っても、“トッティの控え”という開幕当初からの立場は変わることはなかった。セリエAで先発出場のチャンスが巡ってくるのは、トッティが累積警告で出場停止になったり、軽い故障で欠場した時だけ。結局、先発出場はシーズンを通じてわずか5試合にしか過ぎなかった。

さらに、シーズン半ばからイタリアサッカー界を席巻した“パスポート不正取得疑惑”にブラジル代表のカフーが巻き込まれ、イタリア人(夫人がイタリア系だということで合法的に二重国籍を取得していた)として選手登録できなくなるという事件も起こる。

この時にはまだ、イタリアには「EU加盟国の国籍を保有しない選手は1試合につき3名までしかベンチ入りできない」という規定があった。バティストゥータ、サムエルに次ぐ、3人目のEU外選手枠を、この2人のアルゼンチン代表と同様に不動のレギュラーであるカフーが占めることになった結果、中田はベンチ入りの可能性さえ奪われることになる。

事実、3月11日のブレシア戦(9分間のみの出場)から5月6日、「運命の」ユヴェントス戦までの約2ヶ月間、トッティが欠場したために先発で出場したウディネーゼ戦を除いて、トリゴーリア以外で中田の姿を見ることはほとんどできなかった。

ベンチ入りさえも叶わず、毎週の試合という目標すら奪われながら、ただ家と練習場を往復するだけという2001年の春は、中田にとって拷問にも近い日々だったに違いない。こうした状況に置かれて、出場機会とともに緊張感もモチベーションも失い、そのままキャリアまで棒に振る選手も決して珍しくない、という話を、当時ある監督から聞いたことがある。

しかし中田はそうではなかった。3ヶ月半ぶりの先発出場となった4月22日のウディネーゼ戦では、センターサークル付近から右サイドのカフーにロングパスを送ると、そのまま50m近くを走り込み、折り返しのクロスをジャンピングボレーでゴールに叩き込むという、おそらく今シーズンのセリエAで最も美しいゴールのひとつを決め、チームを勝利に導く。

しかし、もっと素晴らしかったのは、イタリアサッカー協会の特別裁定委員会が5月3日に突然下したEU外選手枠撤廃という決定を受けてベンチ入りした、5月6日ユヴェントスとの首位攻防戦での活躍だった。

後半15分にトッティと交代で出場すると、34分には0-2の劣勢を跳ね返すミドルシュートを叩き込んで反撃の狼煙を上げ、試合終了間際には、モンテッラの同点ゴールを呼ぶシュートを放って、奇跡的な同点劇を演出したのだ。後になって、ローマのスクデット獲得を決定づけたのはこの試合だった、と誰もが口を揃えることになる。

この活躍によって、一時は中田の存在すら忘れ去っていたマスコミやサポーターは、一躍中田を“ローマの救世主”として崇めるようになる。

しかしそれ以上に多かったのは、選手、監督などいわゆる“同業者”からの賛辞だった。いつ試合に出られるかわからない状況に何ヶ月も置かれ続けながら、声がかかったときには必ず期待を裏切らない、いや期待以上の活躍を見せるというのがどれだけ大変なことか、その背後にどんな屈辱や苦悩、そして血の滲むような日々の努力の積み重ねがあるかを、最もよく知っているのが彼らなのだ。ユーヴェ戦での活躍は、マスコミやサポーターの賛辞だけでなく、“同業者”からの尊敬をも勝ち取るに値する偉業だった。

こうして中田は、ローマのスクデット獲得に量的にはほんの少し、しかし質的には決定的ともいえる多大な貢献を果たして、2000-2001シーズンを終えた。セリエAでの出場は全試合の半分にも満たない15試合。その大半は、試合時間も残り少なくなってからの交代出場であり、総出場時間は600分足らずに過ぎなかった。

おそらく彼にとってはこれまでの選手生活の中で最も長く、困難に満ちたシーズンだったに違いない。しかし、最後の最後で見せた活躍は、彼がこの困難を乗り越えて、さらにひとまわり大きな選手になったことを、はっきりと証明している。
 
それからの話は、まだわたしたちの記憶に新しいところだ。シーズン中からしばしば名前が挙がっていたパルマへの移籍が正式に決まったのは7月5日のこと。パルマの若き会長ステーファノ・タンツィは、その翌日に行われた入団発表の席上でこう語った。「パルマにとって理想的な選手です。プレーヤーとしても人間的にも高く評価しています。2年前から獲得を考えていました」。

本人の希望(ペルージャ時代と同じ7番)にもかかわらず、あえて背番号10を与えたという事実は、このクラブが中田にどれだけ大きな期待をかけているかを如実に物語っている。

パルマがローマに支払った移籍金は推定600億リラ(約33億円)。3年前にガウッチが支払った金額の10倍である。当時「どうせガウッチが商売目当てで連れてきただけ。日本人がイタリアで通用するわけがない」といわれた21歳の無名選手は、いまや誰もが「セリエAで3本の指に入るトレクァルティスタ」と評価する24歳のトッププレーヤーに成長した。

年齢的にいっても、ヨーロッパという環境への順応度からいっても、中田にとってはこれからの数年間が、選手として精神的にも肉体的にも最も充実した時期になるはずだ。1年後には、2002年ワールドカップという大舞台も待っている。パルマという理想的な環境を得た中田英寿が、さらなる飛躍を果たしてくれることを心から期待したい。

文庫版あとがき(2003年5月)

文庫化にあたり、2001年夏にパルマに移籍して以降の2年間に中田英寿がたどってきた足跡を、追補として以下にまとめることとしたい。
 
2001年7月。中田英寿がイタリアでの4シーズン目を、パルマの一員として迎えた。

ペルージャ、ローマに次ぐ3つめのチームとなったパルマは、北イタリア、エミリア=ロマーニャ州にある人口約17万人の小都市を本拠地とするクラブ。ミラノ、トリノ、ローマといった大都市のクラブと比較すると規模は小さいが、国際的に事業を展開する大手の乳業・食品会社パルマラットを親会社に持ち、1990年のセリエA昇格以来10年以上にわたり、安定して上位を確保してきた好チームである。

この01-02シーズンは、それまで採ってきた、世界的なトッププレーヤーを獲得し、ビッグクラブに伍してスクデットを狙う路線を修正、まだ伸びる可能性を持った若手・中堅にターゲットを絞ってチームを強化して行く方針を打ち出したところだった。

600億リラ(推定・約33億円)という移籍金を投じて獲得した中田は、パルマにとってその新路線のシンボルともいうべき存在といってよかった。そのことは、クラブの側から申し出て、エースナンバーといえる背番号10を与えたという事実に、象徴的に表れている。

当時のスポーツディレクター(強化責任者)、ファブリツィオ・ラリーニは、次のように語っていた。「まだ若く、選手としての“伸びしろ”も、成長しようという意欲もたっぷりあって、しかもすでにイタリアで十分経験と実績を積んでいる、という中田のプロフィールは、我々の求めるプレーヤーの基準にぴったり合致します。数年後にはチームリーダーになってくれるものと期待しています」。

チームを率いるレンツォ・ウリヴィエーリ監督の期待も大きかった。パルマにはすでにヨハン・ミクー(フランス代表)というトップ下のプレーヤーがおり、前のシーズンはレギュラーとしてそこそこの活躍を見せていた。にもかかわらず、プレシーズンキャンプの段階から、トップ下には中田を起用するという明確な方針を打ち出したのである。

ウリヴィエーリは後日、ある雑誌に発表した回想記に、キャンプが始まって数日後、ミクーに対して次のように宣言したことを記している。「レギュラーは中田だ。トップ下は全幅の信頼がなければ力を発揮できない。好不調に関わらず、私は彼を信頼して使う。きみと競争させるつもりはない。競争させる時が来たら、ふたりにはっきりとそう伝える」。

しかし、ミクーを犠牲にして中田をトップ下に据えた新生パルマは、最初の第一歩から大きく躓いてしまう。前年、やっとの思いで出場権を勝ち取ったチャンピオンズ・リーグの予備予選で、明らかに格下のリール(フランス)に敗れ、本選に進むことができなかったのだ。

決定的だったのは、8月8日に行われたホームでの第1レグで0ー2の完敗を喫したことだった。夏のヴァカンスを途中で切り上げパルマに加わって1ヶ月、まだコンディションも十分ではない状態で臨んだこの試合で、中田は精彩を欠いたプレーしか見せることができなかった。マスコミの採点も軒並み、及第点以下の5から5.5という厳しいものだった。

2週間後に行われた第2レグでは1ー0の勝利を収めたものの、2試合のトータルは1ー2。チャンピオンズ・リーグ本選にはリールが進み、パルマはUEFAカップに回ることになった。まだセリエAが開幕してすらいないこの時点で、パルマはシーズンの大きな目標のひとつを失ってしまったことになる。後から振り返ってみれば、この敗退は、その後パルマが送ることになる苦難に満ちたシーズンを暗示する、不吉な前兆そのものだった。

8月26日に開幕したセリエAでも、なかなか波に乗れなかった。開幕からの3試合は2分1敗という冴えないスタート。中田は3試合ともトップ下で先発出場したが、チームメイトとの呼吸が合わず、いい形でボールを受けても決定的なチャンスを演出することができない。いずれの試合でも期待を下回る出来にとどまり、続く第4節のブレシア戦では、ボールを持つたびに味方のサポーターからブーイングを浴びるという、厳しい状況に追い込まれた。

しかし、中田はこの苦境を自らのプレーで跳ね返す。0ー0で迎えたこの試合の後半43分、絶好のタイミングで前線に走り込み、サイドに開いたFWディ・ヴァイオからのクロスをきっちり押し込んで1ー0となる決勝ゴールを決め、チームにシーズン初勝利をもたらしたのだ。マスコミの採点も7から6.5という好評価。この勝利がパルマにとって、そして中田にとって、大きな浮上のきっかけになることを期待する声は多かった。

だが“トップ下・中田”を擁するパルマは、開幕から2ヶ月が過ぎても、チームとして十分に機能するには至らなかった。第5節のラツィオ戦が0ー0の引き分けに終わった後、ウリヴィエーリ監督は、2トップの下に中田を置くシステムを変更し、1トップの下に中田ともうひとりの攻撃的なプレーヤーを置く布陣を試す。しかし、この布陣で戦った第7節ピアチェンツァ戦は2ー2の引き分け、第8節キエーヴォ戦は0ー2の完敗と、いずれもネガティブな結果に終わってしまった。

この時点でのパルマの成績は1勝4分2敗(勝ち点7)。18チーム中13位という不振で、マスコミの間からは監督交代を求める声も上がり始めた。チームの中核として活躍が期待された中田への風当りも、日増しに強くなって行く。地元TV局でのアンケートでは、「中田を先発メンバーから外すべきだ」と答えた視聴者が65%に上っていた。

ウリヴィエーリ監督は後日、当時の状況を次のように振り返っている。

「序盤戦での中田の働きは、期待を上回るものではなかった。しかし、一旦チームの主軸に据えるという決断を下した以上は、時間も与えなければならない。だから我慢して彼を使い続けた。サポーターやマスコミからは疑問の声が上がり始めていたが、そこで私まで揺らいだら、選手は精神的なよりどころを失ってつぶれてしまう。

ディフェンダーは動きが単純だからすぐに新しいチームに馴染めるが、フォワードやトップ下といった攻撃の選手は、スタートを切るタイミング、パスを出すタイミングの呼吸がぴったり合うようになるまで、何ヶ月か時間がかかるのが普通だ。実際、中田自身も、チームメイトとなかなか呼吸が合わない、ピッチの上でなかなか理解しあえない、と訴えていた。しかし、それは時間が解決してくれる問題だと考えていた」

しかし、日に日に悪化する状況は、それだけの時間を与えてはくれなかった。続く第9節のヴェローナ戦でも引き分けに終わり、セリエB降格ラインすれすれの14位まで順位が落ち込んだことで、パルマのクラブ首脳陣はウリヴィエーリに見切りをつけたからだ。10月30日、パルマは監督解任を発表し、暫定的にピエトロ・カルミニャーニGKコーチがチームの指揮を執ることを発表する。

パルマのオーナーであるカリスト、ステーファノのタンツィ親子は、この時点ですでに後任監督の候補を絞り込み、交渉を開始していた。その相手は、前年までユヴェントスの監督を務め、このシーズンは“浪人中”だったカルロ・アンチェロッティ。96-97シーズンから2年間パルマを率いて、チームを2位に導いたこともある知将である。交渉は順調に進み、すんなりと新監督就任が決まるかと思われた。

「ナカタのことなら心配しなくていい。私がちゃんと置き場所を考えるさ」。これは、パルマと交渉中だったアンチェロッティが、ちょうどその時期に取材に訪れた筆者に語った言葉である。「ベンチですか?それとも観客席?」とまぜっ返すと、真顔でこんな返事が返ってきたものだ。「何を言ってるんだ。ピッチの上に決まってるじゃないか」。

しかし、パルマとの契約を目前に控えていた11月5日の朝、やはり深刻な不振に陥っていたイタリア有数のビッグクラブ・ACミランが、横槍を入れる形でアンチェロッティに監督就任を要請し、強引に首を縦に振らせてしまう。

ほとんど“強奪”に近い形で後任監督を奪われた格好のパルマは、第2候補としてリストアップしていた48歳のアルゼンチン人監督、ダニエル・パサレラを招聘するという“次善の策”で満足するしかなかった。アルゼンチン代表のキャプテンとして78年ワールドカップの優勝を勝ち取り、監督としてもアルゼンチン、ウルグアイの代表監督を歴任したとはいえ、ヨーロッパで指揮を執るのはこれが初めて。その手腕に未知数の部分は大きかった。

この間ちょうど、日本代表の一員としてイタリアとの親善試合を戦うために一時帰国していた中田は、イタリアに戻って新たな現実と直面することになる。パサレラ監督は「すべての選手に平等にチャンスを与える。ポジション争いに勝った選手をプレーさせることになる」と明言。就任第1戦となったユヴェントスとのアウェー戦(第11節・11月18日)で、中田を先発メンバーから外したのだ。

中田にとっては、辛い冬の始まりになった。これから3月末までの4ヶ月間、ほとんどの試合をベンチから眺めて過ごさなければならなかったからだ。セリエAでの先発出場は、12月9日に行われた古巣ローマとの対戦(第14節・1ー2で敗戦)のみ。この試合では中盤の一角に入り、攻守に安定したプレーを見せたものの、レギュラー奪回にはつながらなかった。

パサレラ政権は短命だった。就任してからのセリエA5試合で5連敗、パルマは18チーム中17位という泥沼に沈み込んでしまう。UEFAカップでは順調に勝ち進んでいたが、それもほとんど役に立たない慰めに過ぎなかった。なにしろ、このままではセリエB降格である。

タンツィ会長は、5連敗目となった第15節アタランタ戦後の12月18日、シーズン2度目の監督解任に踏み切らざるを得なかった。後任は、前回の解任劇の時に監督代行を務めたカルミニャーニ。さらに、チームを統括するテクニカルディレクターとして元イタリア代表監督のアリーゴ・サッキを招聘する。降格という最悪の事態だけは何としても避けようという背水の陣だった。

しかし、この監督交代によっても、中田をめぐる状況は好転しなかった。カルミニャーニ監督は「中田は私にとってトップ下のプレーヤーではない。中盤でプレーするべき選手だ。そして今のところ、中盤に起用する選手は別にいる」と明言する。トップ下に起用されたのは、開幕当初は戦力外の扱いを受けていたミクーだった。

出場機会がめっきり減ったこともあり、マスコミの間では移籍話が飛び交い始める。ちょうど年明けの1月に1ヶ月間だけ移籍マーケットが再開されるため、ここで他のチームに半年間だけレンタル移籍するのではないか、という推測である。移籍先として名前が挙がったチームは、ラツィオ、ペルージャ、そしてブレシア。それ以外にも、イングランドのチェルシーやアーセナル、ドイツのバイエルン・ミュンヘンといった名前が、噂として報じられた。

シーズンが冬休みに入ると、毎日の紙面を埋めるために、真偽取り混ぜた移籍情報を書き立てるのは、イタリアのマスコミにとっては恒例のこと。しかし、年が明けて明らかになったのは、ブレシアが中田のレンタル移籍を真剣に欲しており、パルマ側にも“貸出し”を受け入れる意志があるということだった。

ブレシアの監督は、99-00シーズンにペルージャを率い、中田を中心に据えて好チームをつくりあげた老将カルロ・マッツォーネ。シーズン半ばのローマ移籍に最後まで抵抗した経緯は、本書の中でも触れられている通りだ。今回の移籍オファーも、もちろんそのマッツォーネのたっての希望によるものだった。

本人が同意すれば間違いなく実現したであろうこの移籍話に、しかし中田は首を縦に振らなかった。ブレシアでプレーする希代のファンタジスタ、ロベルト・バッジョからも説得の電話がかかってきた経緯は、中田本人が自身のホームページ(その後書籍化されている)の中で明らかにした通り。自らの誇りを賭けた選択だった。

しかしカルミニャーニ監督は、チームにとって最も優先順位が高いリーグ戦では、中田をなかなか起用しようとしなかった。2002年1月の冬休み明けから3月半ばまでの70日あまりの間に中田が得た出場機会は、18節レッチェ戦、22節ラツィオ戦、23節トリノ戦の3試合のみ。いずれも後半半ば以降からの途中出場で、先発出場は、コッパ・イタリアとUEFAカップに限られた。

だが、この限られたチャンスに、中田はしっかりと仕事を果たす。1月31日のコッパ・イタリア準決勝第1レグ(対ブレシア)では、後半10分に技ありのループシュートで先制ゴールを決めて勝利(2ー0)に貢献、1週間後に行われた第2レグでも、後半5分に左サイドからエミリアーノ・ボナッツォーリに見事なアシストを送って、決勝進出につながる貴重なゴールをもたらした(1ー2の敗戦ながら、2試合合計3ー2でパルマが決勝進出)。

その間、パルマの成績はどうだったのだろうか?二度目の監督交代から2月10日のラツィオ戦まで、最初の8試合は5勝1分2敗と明らかな復調を見せ、順位も17位から11位まで浮上、これで降格の危機は去ったかに見えた。

ところがそこからの5試合は1分4敗という惨憺たる結果に終わり、第27節ペルージャ戦(1ー2で敗戦)を終えた3月17日の時点では、再び降格ラインギリギリの14位に後退してしまう。カルミニャーニ監督がトップ下に起用したミクーは、当初こそ期待に応える活躍を見せたものの、徐々に調子を落としていた。

中田がほぼ1ヶ月ぶりにセリエAでプレーするチャンスを得たのは、このペルージャ戦だった。前半30分にMFのアレン・ボゴシアンが負傷退場を余儀なくされ、急遽交代で出場したのだ(懐かしいペルージャの観客から、大きな、そして暖かい拍手で迎えられた)。

ウォーミングアップもせずにピッチに立った前半は動きがぎこちなかったものの、後半に入るとリズムに乗り出し、得点につながるミドルシュートを放つなど、説得力のあるプレーで健在を示した。ポジションは、トップ下ではなく中盤。ボゴシアンが抜けたセンターハーフの位置にそのまま入った格好である。

カルミニャーニ監督は就任以来、中田にこのポジションでプレーすることを求め、毎日の練習でも常にセンターハーフ陣の一員として扱ってきた。その理由について、後日、筆者に次のように語っている。

「2トップの後ろでプレーするトップ下には、少なくとも私のチームにおいては、まず前線に素早くボールを供給することが求められる。その点で、ボールをキープして攻撃をスローダウンさせてしまう中田のプレーは、私は好きではなかった。彼には彼なりのこのポジションに対する解釈があるのはわかるが、それは私の解釈とは違っていたということだ。

私にとって、中田のベストポジションは、3ー5ー2の中盤を構成する3人のセンターハーフの一角、守備的な役割をより多く担う中央ではなく、攻撃時には敵陣まで攻め上がる左側のポジションだ。実際に彼に求めたのも、そこでプレーすることだった。それまで経験したことのない仕事にもかかわらず、彼はたった2ヶ月でそれを身につけ、終盤戦でチームに大きな貢献を果たしてくれた。そのことには心から満足し、感謝している」

試合から遠ざかっていた2ヶ月あまりの間、中田は練習場のピッチの上で、監督が求める新しいポジションに適応すべく、毎日黙々と努力を積み重ねてきた(後に「あの頃がイタリアに来てから一番辛い時期だった」と振り返ることになる)。ペルージャ戦後半の説得力のあるプレーが、その成果であることは明らかだった。

そしてこれが中田にとって、3ヶ月に渡る長いトンネルからの出口となった。1週間後のセリエA第28節ユヴェントス戦からシーズン終了まで、コッパ・イタリアの決勝を含めて全9試合、中田は一度たりとも先発メンバーから外れることなく、不動のレギュラーとしてプレーすることになる。ポジションは常に、3ー5ー2の左センターハーフだった。

セリエA残留を賭けたシビアな戦いを勝ち抜かなければならないパルマにとって、新たなポジションに適応し、レギュラーとして復活を果たした中田の存在は、この上なく貴重なものだった。シーズン終盤を迎えて疲労が蓄積し、調子を落としている選手が多い中で、結果的に体力を温存してこの時期を迎える格好になった中田は、試合勘を取り戻すとともに、逆にめきめきと調子を上げていったからだ。

彼が復帰してからのパルマは、ミラン、ローマという強豪にこそ敗れたものの、最後の7試合を4勝1分2敗という好成績で乗り切って何とか降格を回避し、最終的には10位という位置を確保した。

中田が先発出場したのは、セリエA34試合中、半分の17試合。ウリヴィエーリ監督のもとトップ下でプレーした序盤の9試合、そしてカルミニャーニ監督のもと中盤でプレーした最後の7試合に挟まれた、11月はじめから3月半ば過ぎまでの18試合は、1試合(14節ローマ戦)を除きほとんどの時間をベンチから眺めた。「10番」を背負って主役としての活躍を期待された開幕前からすれば、不本意なシーズンだったと言わざるを得ないだろう。

とはいえ、少なくともシーズンの締めくくりだけは、申し分のないものだった。セリエA終盤戦での活躍はもちろん、ユヴェントスと戦ったコッパ・イタリアの決勝戦でも、決定的といっていい重要な働きを見せたからだ。4月25日にトリノで行われた第1レグでは、0ー2でリードされていた後半29分に途中出場すると、ロスタイムに難しいジャンピングボレーを叩き込み、1ー2となる貴重なアウェーゴールを決めた。

チームにとって文字通りシーズン最終戦となったホームでの第2レグ(5月10日)には先発出場。85分間にわたり攻守両面で効果的なプレーを連発して、1ー0の勝利に大きな貢献を果たす。2試合合計のスコアは2ー2ながら、優勝タイトルはアウェーゴールで上回るパルマの手に渡った。パルマにとってコッパ・イタリアでの優勝は3年ぶり3度目。中田にとっては、前年ローマで勝ち取ったスクデットに続く、イタリアで2つめのタイトルだった。

この試合を最後にパルマでの01-02シーズンを終えた中田は、6月のワールドカップを前にして最後の欧州遠征を行っていた日本代表に、オスロで合流する。5月15日のノルウェー戦に出場した後、代表とともに日本に戻り、ワールドカップの大舞台に臨んだ。

中田と日本代表、そしてワールドカップをめぐるストーリーは、本書とは別の、もうひとつの物語である。ここでは、ベスト16進出という偉業を果たし、自身もチュニジア戦で1ゴールを決めたワールドカップにはあえて触れず、ヴァカンスでリフレッシュした後、心機一転を期して臨んだ02-03シーズンに話を移すことにしたい。

二度に渡る監督交代とセリエB降格の危機という、この10年で最悪のシーズンを送ったパルマは、クラブ経営にかかわる財務・管理部門を統括するゼネラルディレクター(GD)のルカ・バラルディ、トップチームの強化から育成部門までを統括するテクニカルディレクター(TD)のアリーゴ・サッキというふたりの手によって、抜本的かつ総合的なクラブ改革に取り組んでいた。

柱となるテーマは二つ。まずは、監督・選手の年俸から来る人件費を大幅に圧縮し、慢性的な赤字体質にあったクラブの収入と支出をバランスさせることによる、経営の健全化。そして、年俸の高いベテランを手放す一方で、豊かな素質を備えた伸び盛りの若手を主体とする路線を徹底し、数年単位の時間をかけてチームを熟成させていこうという強化方針のさらなる明確化である。

7シーズンに渡ってチームを支えたDFファビオ・カンナヴァーロをはじめ、DFネストール・センシーニ、MFマティアス・アルメイダといった代表クラスのベテラン陣は軒並み放出、代わりにFWアドリアーノ、DFダニエレ・ボネーラといった20歳そこそこの有望なタレントが加わった。

25歳の中田は、チームの中でも若手の部類に入っていた昨シーズンから一転、レギュラー候補の中では31歳のラムシ、29歳のジュニオールに次ぐベテランという立場になった。セリエAでのプレーもこれが5年目。そろそろ、チームリーダーとしての活躍が期待されるキャリアといっていいだろう。

チームを率いる監督も代わった。サッキTDが新生パルマを託したのは、45歳のチェーザレ・プランデッリ。ヴェローナ、ヴェネツィアをセリエAに昇格させた実績を持つ、この世界では若手に属する気鋭の監督である。

だが、前監督カルミニャーニと同様、プランデッリも、中田をトップ下のプレーヤーだとは考えていなかった。「私にとって中田はミッドフィールダー。攻守の両局面でそのダイナミズムを生かしてほしいと思っている」と語る新監督は、プレシーズンキャンプを通して、中田を4ー4ー2システムの左サイドハーフに起用しながら、チームを煮詰めて行った。

昨シーズンから機会があるごとに「今までずっとトップ下でプレーしてきたし、自分で一番やりやすいのもトップ下。しかし監督が違うポジションでプレーすることを求めるのなら、もちろんそれに従い全力を尽くしてプレーする」と語ってきた中田は、この新しいポジションで自分の持ち味を生かすためのプレースタイルを模索しながら、プレシーズンのトレーニングマッチをこなしていた。

しかし、開幕を目前に控えた8月末、パルマに大きな変化が訪れる。移籍マーケットの最終日になって、昨シーズン20ゴールを決めたFWマルコ・ディ・ヴァイオのユヴェントスへの移籍が決まり、セリエBのヴェローナからルーマニア代表FWアドリアン・ムトゥが加入することになったのだ。これによって、アドリアーノとディ・ヴァイオの2トップを前提に戦術を固めてきたプランデッリ監督は、チームのバランスを一から見直すことを余儀なくされた。

9月15日に行われたウディネーゼとのセリエA開幕戦(結果は1ー1)、4ー4ー2の左サイドハーフとして先発出場した中田は、2トップの一角として出場したムトゥがしばしば左サイドに流れるため、何度もポジションが重なるなどして、チームの中でうまく機能できず、不完全燃焼気味で90分を終える。マスコミの評価も5から5.5と、及第点を下回るものだった。

プランデッリ監督は、その4日後に行われたUEFAカップ1回戦第1レグ、CSKAモスクワ戦で、中田のポジションを、ムトゥの行動範囲とは反対側の右サイドに移すという修正を施す。これによって、ムトゥは左サイドに流れてプレーすることができるようになり、中田も自由に動けるスペースを得て、より積極的に攻撃に絡めるようになった。

貴重なアウェーゴールを挙げて1ー1の引き分けという、まずまずの結果で終わった試合後、プランデッリ監督は「中田のプレーはとても良かった。今は彼に最も適したポジションを探している最中」とコメントしている。

ところが続くセリエA第2節(コモ戦)では、先発はおろかベンチ入りのメンバーからも外れ、さらにコッパ・イタリアのヴィチェンツァ戦でも途中出場となったことで、マスコミの一部は「中田は移籍を望んでいる」という観測記事を書き立てた。

しかしこれは、3〜4日おきに試合が続くハードスケジュールを乗り切るための、計画的なターンオーバーによるものであり、本人も納得済みだったことが、すぐに明らかになる。事実、9月28日、強敵ユヴェントスとのセリエA第3節で、ふたたび中田は先発出場を果たす。ポジションは9日前のUEFAカップと同じ右サイド、4ー4ー2の中盤というよりも4ー3ー3のFWに近い、高く張り出した位置だった。

この試合、パルマは立ち上がりから積極的なサッカーで主導権を握り、85分間に渡ってユヴェントスを圧倒、試合を支配し続ける。右サイドに位置し、攻撃の局面では3人目のフォワードとして、守備の局面では4人目のミッドフィールダーとして、ダイナミックに動き回った中田は、後半21分に先制ゴールを決め、さらに36分には鋭い出足のボール奪取から素早く前線にパスを送り、2点目の起点となるなど、決定的な貢献を果たした。

結果的に試合は、百戦錬磨のユヴェントスがパルマの若さにつけこむ形で、最後の5分間で2点を挙げて追いつき、2ー2の引き分けに終わってしまう。しかし、試行錯誤を続けてきたパルマが、この試合を通じて、チームとしてのバランスを見出し、明確な戦術的アイデンティティを見出したことは間違いなかった。

実際にこれ以降、プランデッリ監督は、この試合で採用した陣形を基本に据えて、長いシーズンを戦って行くことになる。右サイドで持ち前のダイナミズムを発揮し攻守に奔走する中田は、チーム全体のバランスを保つ上で不可欠の存在となっていた。

不動のレギュラーの座を獲得した中田は、これ以降、3月2日の第23節モデナ戦まで約半年間、21試合連続で先発出場を果たす。この間、イタリアの二大スポーツ紙が揃って及第点を下回る採点をつけた試合はゼロという事実が示す通り、ほとんど常にチームの中で重要な役割を担い続け、高い評価を受けてきた。チームも、時にはつまらない取りこぼしがあったにせよ、この時点でセリエA6位につけるという上々の結果を残していた。

しかし、マスコミから高い評価を受けたとはいうものの、中田のプレーが彼本来の持ち味を存分に発揮したものだったかどうかとなると、話は少々違ってくる。というのも、シーズンが深まるにつれてパルマのサッカーは、前線中央から左サイドにかけてのゾーンで主にプレーする若いふたりのタレント、アドリアーノとムトゥの個人技に必要以上に頼る、バランスを欠いたものになっていったからだ。

このふたりはともに、強引なドリブルからのシュートなど単独で局面打開を図る傾向が強いため、右サイドでプレーする中田はなかなか攻撃に絡むことができない。前線に走り込んでも囮として相手のマークを引きつけるだけで肝心のボールが回って来ず、逆に守備の穴埋めに奔走する場面の方がずっと多く見られた。プランデッリ監督は常々、この自己犠牲を厭わぬ献身的なプレーぶりを高く評価してきたが、中田自身にとってこれは、大きなストレスをもたらす状況だったようだ。

続く3月9日の24節アタランタ戦、中田は22試合ぶりに先発を外れてベンチからスタートする。その背景に、プランデッリ監督に対して自らポジションの変更(控えになったとしてもサイドではなく中盤でプレーしたい)を申し出るという出来事があったことは、中田自身が自らのホームページの中で明らかにしており、日本、イタリアのマスコミもそれを大きく報じたので、この本の読者ならばすでにご存知だろう。

しかし、シーズンはもはや終盤、来シーズンのヨーロッパカップ出場権を賭けて戦い続けているパルマが、曲がりなりにもそれなりの結果をもたらしているチームに大きく手を加えるという危険を、今さら冒すことはできない——。おそらくこれが、プランデッリ監督の判断だった。かくして、次の第25節キエーヴォ戦から、中田は何事もなかったように以前と同じポジションに復帰することになる。

その後、3月の終わりに左足大腿の筋肉を傷めて2試合を欠場したものの、第29節のトリノ戦からチームに復帰。故障の影響でやや切れ味を欠いているとはいえ、監督に求められた仕事をきっちりと果たすプロフェッショナルなプレーを見せて、中田英寿はイタリアで過ごす5年目のシーズンを終えようとしている。

セリエAという世界でも指折りのトップリーグで5シーズン過ごすというのは、どんな外国人プレーヤーにとっても、並大抵のことではない。鳴り物入りでイタリアへの移籍を果たしながら、ほんの1年か2年で去って行ったスタープレーヤーも少なくないのだ。本書が示す通り、中田がたどってきた足跡は山あり谷あり、喜びよりも苦難の方がずっと多い日々だったに違いない。

しかし確かなのは、5年前、サッカー後進国・日本から、信じられない数のマスコミを引き連れてペルージャにやってきた21歳の無名の「サムライ」が、好奇心と不信感が相半ばする視線の中、自分の力でカルチョの世界における評価と信頼を勝ち取り、ついにはひとりの成熟したサッカー選手、「ナカタ」として、誰からも期待と尊敬と評価を集める存在になったという事実である。

まだ26歳。選手としてのキャリアがピークを迎えるのはこれからだ。その舞台が今後もイタリアであり続けるのかどうかは、かなり以前から飛び交っている移籍の噂を見る限り、かなり微妙なところのようだが、こればかりは蓋を開けてみるまでわからない。いずれにしても、日本が世界に誇るフットボーラー、ヒデトシ・ナカタが、さらなる高みへと飛翔することを祈りつつ、心からの声援を送り続けたい。

(2003年5月15日/初出:『NAKATA』朝日文庫版あとがき)

By Michio Katano

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。