今日(2014年12月3日)の『ガゼッタ・デッロ・スポルト』の1面は「ミランとインテルがオカカをめぐるダービー」という見出しでした。サンプドリアでプレーするステーファノ・オカカは、1989年生まれのセンターフォワード。17歳でセリエAデビューを果たした06-07シーズン当時は、イタリアの未来を担うビッグタレントともてはやされていました。その後のキャリアは決して順風満帆とは言えませんでしたが、ここに来てやっとブレイク。11月にはついにイタリア代表に招集を受けています。というわけで、8年前のデビュー当時、彼について書いたテキストを。同時掲載されたジュゼッペ・ロッシ(フィオレンティーナ、当時マンチェスターUtd)のそれも一緒にどうぞ。

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ステーファノ・オカカ・チュカ

ステーファノ・オカカ・チュカの幸運は、ナイジェリアで生まれ学業のためにイタリアに渡ってきた両親に負っている。オカカ家がイタリアに移住して来た時、熟練した農業技術者だった母ドリスと、会計士である父ドリスの間には、すでに長男のカルロが生まれていた。カルロは早くからスポーツの才能を発揮することになる。

中部イタリアのウンブリア州ペルージャ県にある小さな村カスティリオーネ・デル・ラーゴに居を据えてから間もなく、オカカ家の家族は一気に2人増えることになった。ステーファノとステファニアという二卵性双生児が生まれたからだ。この姉弟は、すべての双子がそうであるように、特別な絆で結ばれている。ステファニアは、兄カルロと同じようにバレーボーラーになった。セリエCで戦う地元のクラブ・トラメジーノから、セリエAのプロチームであるラヴェンナにスカウトされた。

一方ステーファノは、同じボールゲームでも手ではなく足を使うスポーツ、つまりサッカーが最初からお気に入りだった。たった5歳で地元のサンファトゥッキオというチームに入り、それから今までの13年間、常に自分の年齢よりも上のカテゴリーでプレーすることになる。それは、大柄な上にブラックアフリカン特有の筋肉質でパワフルな肉体を、子供の頃から持っていたからだ。

だが、それはいいことばかりではなかった。ステーファノは回りの子供たちと比べて身体能力が高すぎたがゆえに、監督が強力なディフェンダーを必要としているときにはセンターバックとして、中盤が弱い時にはMFとして、FWが足りない時には前線でと、その時々の都合でポジションを変えられたからだ。しかしその中で最も多くこなしたポジションは中盤だった。選手登録も子供の頃はずっとMFだった。つまり、オカカはMFとして育ったということになる。

いずれにしても、回りの誰と比べてもずっと目立つ存在であることに変わりはなかった。そんなステーファノにはすぐに、多くのスカウトが注目することになる。最初に獲得に乗り出したのはパルマだった。パルマはセリエAの重要なクラブであり、しかも育成に力を入れている。オカカの行く先はこれで決まったかのようにみえた。ところが、信じられないことが起こる。ヴェネト州に拠点を置くセリエCの小さなクラブ、チッタデッラがオカカの保有権を買い取ったのだ。フォワードとして育てるというのがその条件だった。こうしてステーファノは、ストライカーとしてのキャリアをスタートさせることになった。

すぐに明らかになったのは、これほど「当たり」の選択はなかったということだった。センターフォワードとしてプレーするようになると、ステーファノはすべてのユースカテゴリーで、山のようなゴールを決め続けた。13歳の時にはジョヴァニッシミ(U-14)とアッリエーヴィ・レジョナーリ(U-15)、14歳の時にはアッリエーヴィ・レジョナーリとアッリエーヴィ・ナツィオナーリ(U-16)と、常に2つのカテゴリーを掛け持ちでプレーしていた。ウンブリア生まれのナイジェリア人ストライカーは、ほどなくして国際的な注目を集めるようになる。チッタデッラには、ミラン、そしてアストン・ヴィラからも魅力的なオファーが届けられた。

だが、噂を聞きつけたのはこの2つのクラブだけではなかった。かつてユヴェントスとローマでプレーしたポーランド人MFで、今もローマに居を構えるジビ・ボニエクは、かつての盟友ブルーノ・コンティに獲得を強く勧める。「スケールの違う選手がいる。U-15代表に一度招集されたこともあって、今ミランが獲得しようとしているが、まだ割り込む余地はある。一度見に行った方がいい。じゃないと後で後悔するぞ」。

ボニエクほどの目利きに薦められて無視するわけにはいかない。ブルーノ・コンティはオカカのプレーを見に行くと、その翌日すぐに、オカカ家の全員をローマ郊外トリゴリアの練習場に招待した。ステーファノはミランという名前に強く魅かれていたが、ローマの練習場を訪れてその充実した施設に目を見張り、そしてロッカールームでフランチェスコ・トッティのロッカーを見た時に、自分もこの場所の一員になりたいという気持ちで胸が一杯になった。こうして15歳の夏、オカカは灰色で寒いヴェネト州からローマの明るい陽光の元に移って、将来を約束されたエリートとしての歩みをはじめることになる。

それからまる2年が過ぎた今、17歳のオカカはすでにセリエAでデビューを飾っただけでなく、初ゴールまで決めて、その存在を強くアピールし始めた。両親の母国ナイジェリアからは、早くも代表チームへの招集が届けられた。しかしステーファノは、自らが生まれ育った国であるイタリア代表の一員となることを夢見ている。すでに女子バレーボールのイタリア代表でプレーしている双子の姉ステファニアと同じように。■
 

ジュゼッペ・ロッシ

マンチェスター・ユナイテッドのサポーターは、彼を「ジョー・レッド」と呼ぶ。ジュゼッペ・ロッシのキャリアは、オカカのそれと似通ったところが少なくない。ポジションは同じセンターフォワード、両親のオリジンとは異なる国で生まれ育ったところも同じだ。ただしロッシの場合は、イタリア人の両親の元、アメリカで生まれ育ったのだが。

生まれは東部ニュージャージー州のティーネック。子供の頃からサッカーの虜になり、同年代の子供とは比較にならないほどのプレーを見せるがゆえに、父フェルディナンドはまったく気が気ではなかった。「このままアメリカにいたら、この子にとっては才能の無駄遣いになってしまう。イタリアに連れて行って、本当の才能がどれほどのものか確かめなければ」。

フェルディナンドは母国に帰るとスポーツ新聞の編集部を回り、凄い才能を持つ息子を連れてくるからクラブを紹介してほしいと頼んで回った。子供の才能を過大評価する単なる親馬鹿の言い草のように見えるかもしれない。しかし少なくともこの場合は、まったくそんなことはなかった。12歳になったジュゼッペは、すぐにパルマのスカウトに注目され、育成部門に登録されることになる。パルマは、両親にも仕事を紹介して家族ぐるみで帰国できる環境を整えてまで、ジュゼッペを手に入れたがった。

そしてそれから4年。16歳になり、パルマのプリマヴェーラで左ウイング、あるいはセコンダプンタとしてプレーしていたジュゼッペのスピード溢れるプレーには、国外のスカウトから熱い視線が集まっていた。2003年春、マンチェスター・ユナイテッドは、16歳になったばかりのロッシにプロ契約をオファーする。財政に余裕のないパルマは、まだプロ契約を交わしておらず、たった20万ポンド(約4000万円)の育成報酬金で、この宝石が強奪されるのを、指をくわえて見ているしかなかった。ちなみに同じ頃、パルマからはもうひとり、ロッシとU-16代表でも2トップを組んでいたアルトゥーロ・ルーポリが、アーセナルに引き抜かれている。

マンUのアカデミー、そしてリザーブチームで腕を磨いたジュゼッペは、2004年11月10日、クリスタル・パレスとのカップ戦でトップチームへのデビューを果たす。ユースリーグでは、1年目が26試合で26ゴール、2年目も23試合16ゴールという、恐ろしいペースでゴールを重ねていた。パルマ時代も含めれば、U-15からU-18まで、各年代のイタリア代表すべてに招集され続け、この8月15日にはまだ19歳にもかかわらずU-21代表に招集されて親善試合のピッチに立っている。

ロッシはオカカとは違って、178cm72kgと人並みの体格しか持ち合わせていない。しかしそのテクニック、そしてレフティらしい閃きに溢れたプレーはそれを補って余りある。とはいえ、まだまだ未成熟な面も多く、これからピッチの上で経験を積み重ねて行かなければならない。だが、サー・アレックス・ファーガソンはロッシに対する賛辞を惜しまない。「ジョーに強靱な肉体は必要じゃない。身のこなしが滑らかでスピードがあり、ペナルティエリアの中では頭を使って狡猾に振る舞うことができる。背は高くないが空中戦には強い。これらはすべて、偉大なフォワードだけが持っている資質だ」。

ジョー・レッドは今シーズン、彼に唯一足りないもの、すなわち経験を積むために、ニューカッスルにレンタルされている。故障中のマイケル・オーウェンの穴を埋めるためだ。それだけで、どれだけの評価と期待を集めているかがわかろうというものだ。レンタル期間はわずか4ヶ月。その間はオバオバ・マルティンスと共にプレーすることになる。すでに、オカカに起こったのと同じように、USA代表のブルース・アレーナ監督から招集の打診が届いている。アメリカ生まれで二重国籍を持っているので、こちらの代表でプレーしないか、というわけだ。しかしジュゼッペ・ロッシもまた、アズーリの一員としてプレーすることを夢見ている。イタリアで生まれた外国人と、外国で生まれたイタリア人。アズーリへの思いは変わらない。■

(2006年9月27日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

By Michio Katano

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。