※インタビューは2003年5月2日、ローマ近郊フォルメッロにあるチェントロ・スポルティーヴォのピッチ上で行われました。
――2年ぶりに監督としてラツィオに戻ったわけですが、チーム状態は決して良くなかった。どこからチームの建て直しに手を付けたのでしょうか?
チームはメンバーがかなり入れ替わっていました。重要な選手が何人も去っていた。
でも戦力的にはまだ十分なレベルにあった。難しいシーズンを過ごしてきた選手たちの、その雪辱を果たしたいという気持ちを刺激することから始めました。
――選手たちにはどんなプロジェクトを示したのでしょうか?
示したのは私の考え方です。つまり、サッカーをする時は、何よりもまずプレーを楽しむことが大事だということ。どんな仕事でもそうだけどサッカーというのは、仕事であると同時にひとつの楽しみなわけで。
毎日の練習も、それを楽しめなければ、100%の力を出すことは難しい。だからまず何よりも、気分よく練習に取り組んで、サッカーを楽しもうじゃないか、ということです。
――具体的には、どんなふうにしてそれができる環境を作ったのでしょう?
別に特別なことをしたわけじゃないですよ。最初の日から私についてきてくれた選手たちが素晴しかったということです。彼らとの関係は普通とはちょっと違う。というのも、中には以前一緒にプレーした選手が何人もいますからね。
いずれにせよ私は、こういう難しい状況の中でもいい成績が残せると信じていたし、だから最初からずっと、楽しみながらいいサッカーができれば結果はついてくる、と言い続けてきたんです。
――昨シーズンまで、フィオレンティーナの監督として、同じように困難な状況と戦ってきたわけですが、その経験が生きたという面もあるのでしょうか?
あれは「困難な」経験じゃなく「すごく困難な」経験でしたからね。というのも、シーズンの途中に監督になって、その年にコッパ・イタリアに勝った。ところが、その後状況が良くなるどころか、逆に悪くなって、あっという間に壊滅的な事態になってしまった。
ある日突然、クラブの役員が全員姿を消してしまったりね。何もかもが一度に起こった。ラツィオに来た時の状況を考えると、まああの時の経験は確かに役に立ったと言えるでしょうね。
――今シーズンの躍進にとって大きかったのは、昨シーズン非常に難しい1年を送った選手たちが復活したことだったと思います。フィオーレ、ロペス、セーザル……。どうやって彼らを立ち直らせたのでしょうか?
何よりもまず、彼らは元々優秀な選手です。だから、どうやってプレーすればいいかを忘れたなんていうことはそもそもあり得ない。ただ、昨シーズンはチームの成績も、シーズン中に起こった様々な出来事という点でも、難しい1年だったことは確かです。だから精神的には、ちょっと落込んでいた。
でも、元々実力はあるんだから、もう一度自信を取り戻させるためには、ちょっと強く背中を押してやるだけでよかった。残りは全部彼ら自身が自分の力でやったことです。立派だったのは彼らですよ。
――ラツィオの選手たちは結束が固く、みんなあなたを慕ってついて行っているように見えます。チームをまとめて行く上での心理学、心理的なマネジメントというのは、監督の仕事にとって重要なものなのでしょうか?
ええ。常に重要だと思います。特に今回のように、クラブが様々な問題を抱えている時には、特にそうでした。でも私は幸運だったとも思いますね。選手たちの多くをすでに知っていましたから、そういう意味では有利だったと思います。
――じゃあ、かつてチームメイトだった選手が多いというのは、ネガティブなことじゃなかった?
ええ。むしろポジティブなことでした。一緒にプレーしていた当時から、お互い尊敬し合ってきたし、私は選手の時からピッチの上のチームメイトに対して、どんな時でも持てる力をすべて出し切ってプレーすることを要求し続けてきた。それは彼らも当時からよく知っているわけです。
だから私が監督として何を求めるかもみんな分かっていた。常に最大限の力を出すことを求め、彼らもそれにちゃんと応えてくれました。その意味でもポジティブだったと思います。
――選手はあなたに敬語を使うんですか?
使う選手もいるし使わない選手もいる。でもそれは大して重要なことじゃありません。
――あなたにとっては、そういう形の上での上下関係みたいなものは重要ではない?
重要じゃないですね。敬意や礼儀正しさというものは、敬語を使うか使わないかによって計ることができるとは思わないから。敬語を使わなくとも、尊敬の念や信頼の気持ちを表して人と接することはできますからね。
――選手時代からあなたが監督をやっていたというのは有名な話ですが、実際ピッチを離れてベンチから試合を見るというのは、やはり違うものでしょうか?どのように違いますか?
もちろん違います。見てるだけの方がずっとしんどい。ずっとしんどいですね。
サッカーというのは、すごくしっかり試合を準備して、狙い通りいい試合をして、でもボールはポストやバーを叩いて、相手に与えた最初のチャンスにゴールを決められて負けてしまうこともある。
それはすごくしんどいことだけど、実際にその場で監督にできることは本当に少ない。だから主な仕事は、1週間の間に練習の中でやるしかない。試合中にできることといえば、状況を変えるためにちょっとした手を打つくらいですから。
――監督マンチーニは、選手マンチーニとは違う人のように見えます。自分で分析してみてもらえますか?
そりゃ違いますよ。まず、ちょっと年をとっている(笑)。
年をとって、しかもひとつの集団を率いて行かなければならないとなると、性格的にも成長しないわけにはいかないですからね。
それに、責任を持っていろいろな状況に当たらなければならないから、常に落ち着きを保っている必要がある。選手として振る舞う方がずっと簡単でしたよ。ピッチの上でプレーしながら、周囲で何が起こっているのかを理解するのは、私にとっては全然難しいことじゃなかったですからね。
――そこに介入するのもずっと簡単だったと。
そういうこと。
――監督として介入するのは難しいですか?
ええ、ずっと難しい。何よりもまず、すべての責任を自分で負わなければならない立場ですからね。
――マスコミとの関係も変わりましたか?
ええ。でもそれは当然のことですよ。選手から監督になって変わるのはね。でもいつもいい関係を保ってきた。
――選手としては、ラツィオでスクデットを獲った後に引退して、その後また一度イングランドで現役に復帰しましたよね。あれはプレーヤーとして何か未練が会ったからですか、それとも別の理由があったのでしょうか?
スクデットとコッパ・イタリアを獲った後引退して、エリクソンの助監督として監督業を始めて、ところがエリクソンが1月に辞任してしまった。私としてはそのまま……。
――後を継げると……。
ええ。そう思っていたんだけれど、そうはならなかった。
それでちょっとがっかりして、イングランドというまったく違う場所に行ったんです。単に復帰するためというより、プレーを楽しみながら、英語を身につけるいい機会だと思ったから。
でもほんの短い間のことに終わりました。イングランドに行って1ヶ月後には……。
――フィオレンティーナからのオファーが……。
そう。そういうわけで……。
――フィオレンティーナでも、プレーイングマネジャーという話が出ていましたが、もし可能性があればなるつもりでしたか?
それは、フィオレンティーナには全然金がなくて、選手を補強することができなかったせいで、そういう話になっただけですよ。
――選手として一番心に残っている思い出は何ですか?
特別にひとつ、というのはないですね。20年間……、時には苦くて辛い敗北もあったけれど、全体としては充実した素晴しい20年間でしたよ。
――特によかった時期というのもないですか?
いやないですね。ずっと、いつも素晴しかった。敗北はサッカーの一部ですからね。そして、サッカーをプレーするというのは、世界で一番素晴しいことだから。特に心に残っている瞬間はありません。
――ウェンブレーでのあの思い出(92年のチャンピオンズ・カップ決勝バルセロナ戦。延長後半にロナルド・クーマンのFKで失点し0ー1で敗北)も?
あれは消化するのに時間がかかる敗北でしたね。でも、いつの日か今度は監督として、あのカップを手にしたいと思っていますよ。
――クライフのバルセロナには、その前にベルンでもやられていますよね。
そう。その2年前にカップウィナーズ・カップの決勝でね。
――当時のバルセロナは、世界最強のチームのひとつだった。
ええ、世界で最もいいチームのひとつだった。でもあの決勝は負ける内容じゃなかった。
――2試合ともですか?
いや、カップウィナーズ・カップの方は、決勝にたどり着いた時にすでに故障者がたくさん出ていて、完全な状態じゃなかった。
でもウェンブレーではチームの調子もよかったし、3、4回決定的なチャンスに決められなくて……。最後にFKから決められてしまったけれど、内容的には我々の方がいいサッカーをしていましたよ。
――監督業に話を戻しましょう。ラツィオに元エリベルト(ルシアーノ)、マンフレディーニ、コラーディといったキエーヴォの選手の獲得を求めましたよね。キエーヴォのようなサッカーがしたかったということなのでしょうか?
いや。欲しかったのは両ウイングでした。最初はね。
ラツィオにはいなかったから、ウイングがふたり欲しかった。ポボルスキーは移籍してしまったし、左サイドのセーザルのことはまだよく知らなかったから。
ラツィオにも、キエーヴォのようなタイプの両ウイングが欲しいと思っていました。もうひとつ、フィジカルとヘディングが強くて、チームのためにプレーできるセンターフォワードも必要としていました。
――去年あなたは、キエーヴォの練習も見学に行っていますよね。ああいうタイプのサッカーが好きだということですか?
ええ、好きといえば好きですよ。でも見にいったのは、キエーヴォがいいサッカーをしていたからです。ああいうタイプのサッカーはずっと好きでしたね。ああいうウイングを持っていれば、いいサッカーをできる可能性は大きくなりますから。
――システム的にいうと、4-4-2あるいは4-4-1-1が好みなんでしょうか?
いや。特に好みのシステムというのは、どうだろう、別にありませんね。
どんな選手がいるか、それに合わせて対応できなきゃいけないと思うし。もちろん、今年のうちのチームに関しては、間違いなく4-4-2がベストの解決策ですよ。
でも、結局はどんな選手がいるかによります。もしウイングがいなければ(4-4-2でやるのは)難しくなりますから。
――どんなメンバーがいるかはさておき、あなたが実現したいと思っているのはどんなサッカーなのでしょう?理想のサッカーというのはどんなものですか?
理想のサッカーねえ――。理想のサッカーが存在するのかどうかわからないな。
監督が目指すのは、目の前にいるチームにいいサッカーをさせること、いいアイディアを与えること、選手たちが持てる力を最大限に発揮できる環境をつくることですからね。
理想のサッカーというのは、結局のところ勝てるサッカーということです。でもそれがどんなものか言うのは難しい。
――ということは、ひとつのシステムやひとつのサッカースタイルを追求するのではなく、自分が持っているチームの力を最大限に引き出すことを目指す、そういうことですか?
とにかく、すべてはどんな選手がいるかによって決まるものなんです。例えば、優秀な選手を持っていない限り、勝つことはすごく難しい。いいサッカーをすることはできるし、いいシーズンを送ることはできる。でも勝つことはできない。何故かといえば、勝つためには、優秀な選手を持つことが不可欠だからです。
優秀な選手がいても、さらに、彼らにいいプレーをさせること、チームにひとつの形を与え、そのチームのサッカーを確立することが必要です。というのも、長いシーズンの間には、難しい時期が必ずあるから。いい選手がいても、彼らがいつもいいプレーをするとは限らない。
例えばレアル・マドリーだって困難な1ヶ月を送ることはあります。レアルにいい選手が揃っていることはいうまでもありません。だから大事なのは、チームとしての形を確立することです。
――ラツィオのサッカーを見ていると、あなたはスピードを重視したサッカーを志向しているように見えるのですが、そんなことはありませんか?
もちろんスピードのあるサッカーが好きですよ。だって今の時代、スピードがなかったら、ゴールを決めるチャンスをつくることすら、すごく難しくなりますから。だから、スピードがなければいけないし、個々のプレーも素早くなければいけない。
でも今年のうちのサッカーは、他の監督たちからも、セリエAで一番良かったと言われていますよ。それとは別に、我々よりも強いチームはたぶん他にいると思うけれど、サッカーの内容に限れば、うちよりもいいサッカーをしたチームがあったとは思えないですね。だから、みんな、これまでやってきたこと、今やっていることにすごく満足していますよ。
――ボールポゼッションについては、どんな考えをお持ちですか?
ボールポゼッションは重要ですよ。こっちがボールを持っている限り、相手は持ってない。だから、ボールをつないでキープすること、それができることは重要です。でも、ゴールにつながるチャンスを作るためには、プレーのスピードを上げることも大事です。
――この2つは、必ずしも両立しないものですが……。
いや、私は両立すると思いますよ。というのも、ボールポゼッションに優れているということは、6~7本のパスを素早くつないで相手のゴール前に迫るということでもあり得るからです。これもひとつのボールポゼッションでしょう。
というのも、ボールをキープし過ぎると、相手のディフェンスが陣形を固めてしまうから、スペースを見つけるのが難しくなる。
――ということは、パスを速くつないで数的優位の状況を作るのが大事と。
そういうこと。ボールポゼッションというのは、パス4本で成り立つこともある。大事なのは、素早く相手ゴール前までたどり着くことですよ。
――開幕直前にクレスポとネスタという、ふたりの重要な選手を失うことになりました。あなたにとっては痛い損失だったと思いますが、すでにそういう事態は想定していたのでしょうか?
いやそんなことはありません。最初は、きっと出て行くことになるだろうと覚悟していました。でもその後、8月31日までずっと残っていた。だからこれでやっと何とか、2人をチームにとどめることができるとほっとしていたんです。ところが2人とも8月31日に去って行ってしまった。ショックはかなり大きかったですよ。
――その後、補強をすることも難しい状況だったこともあって、現有戦力から最大限の力を引き出す方向で開幕に臨んだ、と。
ええ。
――前半戦は非常に好調だったわけですが、後半戦に入ってからは、徐々に調子が落ちてきましたよね。それは何故だったのでしょうか?
いや、それは普通のことですよ。長いシーズンの間には、どうしたって調子が落ちる時期はある。ラツィオの場合はそれが2月、3月だったということです。
なかなかゴールを決めることができなくなった。内容的にはいいサッカーをしているのに点がとれなくて、下位のチームを相手にポイントを落としてしまった。
そこでトップグループと6~7ポイントの差がついて、そのまま取り返せない差になってしまった。その後も内容的にはずっといいサッカーをしてきたんですが、同じようにプレーしているにも関わらず、シーズン序盤と同じようにはいかなくなりました。
それはおそらく、もしチームにフオーリクラッセ(超一流の選手)がいれば、全部が全部うまく機能していない時でも試合を解決してくれることがあるけれど、うちには……、ということでしょう。
でも、ラツィオが置かれていた状況、クラブがいつ破産してもおかしくなかったという状況を考えれば……。今もセリエAで4位、ミランからたった2ポイントのところにいて、UEFAカップとコッパ・イタリアでは両方とも準決勝まで行った。
それを考えれば、ここまで自分がやってきたことには満足している、幸せだという以外にないですよ。
――監督としての目標は?
目標は、やはり勝つことですね。重要なタイトル、スクデットとか、チャンピオンズ・カップをいくつかとか……。
――チャンピオンズ・カップを「いくつか」ですか。
そう。まあ、3つも4つも続けて勝つのは難しいだろうけど(笑)。
でも、私の願い、目標はそれ(勝つこと)ですよ。それと、何よりも自分が楽しむこと。そして自分が指揮するチームがいいサッカーをして、人々を楽しませることですね。
――今のラツィオにおけるあなたの立場は、単に監督だというだけでなく、役員会のメンバーでもあるわけですよね。これは何を意味しているのでしょうか?つまり今は監督であると同時にクラブの役員でもあるわけで……。
私が役員会のメンバーになっているのは、今のクラブの状況がこういうふうだからで、この先どうなるかはまだ……。
――一時的な措置だということですか?
いや、一時的なものではないと思います。というのも、こういう状況だと、おそらく、
経営者たちも役員会の中に監督が入って、チームの状況どうなっているかを把握できるようになっていた方がいいと考えていると思うから。その点からいってもそれなりに重要な立場だと思います。
――ということは、あなたのキャリアが今後もラツィオで長く続く可能性もあると?
ええ、もちろんあるでしょう。
――例えばファーガソン(マンUの)みたいな存在になる可能性も?
ええ、それもあり得るでしょうね。まずはラツィオがちゃんと経営を建て直してくれるのを待たないと。すべてはその後の話。
――しかし一方では、他のクラブからのオファーの話もいろいろ出ています。インテルとか。
まあ、残念ながらイタリアではいつもこうなんです。3月、4月、5月はメルカートの話題が必要な時期だから、たくさんの噂が飛び交う。
――ということは、マスコミがそういう噂を流しているだけだと?
さあどうでしょう。でもこういうのは毎年いつも同じですよ。
――じゃあ、あしたモラッティから電話がかかってきて、インテルを指揮してくれと言われたらどうしますか?
……。今はまだ、4試合残っているし、どれもすごく難しい試合です。シーズンの最初に設定した大きな、そして困難な目標(4位以内=チャンピオンズ・リーグ出場権)があって、このままだとそれが達成できる。だから今頭の中にあるのは、なによりもまずそのことです。
――じゃあシーズンが終わった時だったらどうでしょう。ちょっとしつこいかもしれませんが。
さあね。外野がそう言っているだけのことだし、私自身には何も起こっていないわけだから。まだラツィオとの契約も残っているし、このままラツィオに残ると思います。
――でも、心魅かれる話じゃないですか?
それが事実かどうかは全然知りませんよ。でも、インテルのようなチームから求められているのだとしたら、それはもちろん魅かれますよ。当り前でしょう。
――イタリアでプレーしている2人の日本人選手について少し話しましょう。中田と中村。ふたりにどんな印象を持っていますか?
中田はとても気に入っています。もうエキスパートだし、イタリアで何年もプレーしている。よくやっていると思います。
実際去年、彼がローマから移籍しようとしている時に、フィオレンティーナに獲ろうとしたくらいです。今年もよくやっていると思う。
中村はもっと若い。偉大な才能の持ち主のように見えます。今はレッジョで経験を積んでいる段階ですね。でもこれから、イタリアでいい未来が開けるだろうと思います。
――何か修正すべき欠点はありますか?
中村はまだ若いから、もちろん欠点はありますよ。でも欠点のない若手なんていませんからね。イタリアでプレーしている中で、それを克服して行くことは可能だと思います。
――あなたの世代には、引退後監督を目指す人が非常に多いですよね。あなたの元チームメイトであるヴィアッリやヴィエルコウッドもそうだし、サッキのミランでプレーした人たちもそう。
ええ。
――あなたの世代と以前の世代とでは、何か違いというか変化があったのでしょうか?メンタリティが変わったというようなことはありますか?
そうですね。多少変わったところはありますね。でも前の世代にも監督になった人はたくさんいますけど。でも何年か前までは、名選手は名監督になれないと言われてきた。
――確かに。
それもあって、監督を目指した元選手の多くは、監督として成功できなかった。いずれにせよイタリアで監督という仕事をするのは簡単なことじゃありませんからね。でも今はそういう考え方も変わってきた。実際偉大な選手だった監督が大きな結果を残していますからね。
私は、選手としてトップレベルでプレーした経験は監督としてもプラスになると思っています。私自身、異なる時代にまたがってプレーしてきました。
それを通して、ゲームの中で起こる様々なシチュエーション、カルチョの世界で起こる様々な状況を理解できるだけの経験を積んできた。その点でも、選手としての経験というのは監督の仕事にとって重要だと思っています。
――とりわけ、ひとつのグループを率いて行く上で、チームマネジメントの側面から重要だということでしょうか?
ええ。その側面は非常に重要だと思います。今の監督は、昔と比べればすごくたくさんの金を稼いでいる選手たちをまとめて行かなければならない。その意味でも昔よりずっと難しくなっています。
そうした変化を、そのいい面も悪い面も含めて、選手として生きてきた経験というのは、監督の仕事にも非常に役立っていると思います。
――あなたは選手としては、ほんの数人の監督の下でしかプレーしていませんよね。ウリヴィエーリ、ベルセッリーニ、ボスコフ、そしてエリクソン。実質的にこの4人だけです。
それは……。私はいつも、自分の監督を守るために戦ってきました。というのは、チームがうまく行っていない時、それが監督の責任だということは、滅多にないことだからです。
もし監督がチームとの間に何の問題も抱えていなければ、そして目先のことしか見えないような人物でない限り、その監督とシーズンを続けて行くほうが絶対にいい。お互いのこともチームの状況も良く知っているわけだし。
逆に監督が替わると、特にシーズン途中に替わることになると、もしその監督が前の監督とは違う要求をしてきたりすることもあり得るし、簡単じゃない。
だから私は、自分の監督が難しい状況に陥った時にはいつも、チームメイトと一緒になって、監督が替わらないように、そして問題が解決するように務めてきました。結局最終的には、すべては選手にかかっているわけだし。
――そうやってボスコフ、エリクソンとそれぞれ7~8年ずつ過ごしたわけですね。
ボスコフとエリクソンを合わせて15年過ごしました。
――キャリアの4分の3ですね。
ええ。どんな時でも監督は支えるべきですからね。
――マンチーニ監督に対する個人的な第一印象は、選手時代の癇癪玉をよく抑えているな、というものだったんですが、どうやっていつも淡々としていられるようになったんですか?
いや最近はまたちょっとイライラしてますよ(笑)。シーズンも終盤で疲れも溜まってきているし、達成しなければならない目標もあるし、まあちょっと気が立っていますね。
でも、ベンチから見ていると、試合がどうなっているかを把握するのはけっこう難しいから、落着いていた方が、どこを修正すればいいか見えやすいというのはありますよ。
――以上です。どうもありがとうございました。
どういたしまして。