新システムとなった欧州チャンピオンズ・リーグが開幕した。実際に始まってみて実感させられるのは、結局、欧州スーパーリーグは実現したのだ、ということ。

これまで隔週だった試合スケジュールが毎週になり、少なくともこれからの2ヶ月間、参加チームにとって、国内リーグとチャンピオンズ・リーグは物理的に全く同じ比重を持つことになった。しかも、毎週ヨーロッパのトップチームと戦わなければならない。事実上、2つのカンピオナートに参加しているようなものだ。

もちろん、各チームとも、このハードスケジュールに備えて、トップレベルの選手を2チーム分以上抱え込んでいる。ラツィオのエリクソン監督などは「できることなら試合毎に11人全員を入れ替えたいくらいだ」と語っているくらいで、毎試合最低でも2-3人のメンバーを入れ替えるターンオーバーは、欧州カップを戦うチームにとって今や大前提といっていい。

しかし、中2日、中3日の戦いが延々と続く、というのは、回復のための休養はもちろん、戦術的な修正を図り、次の試合に備えるための練習の時間すらほとんど取れないことを意味している。

コンディションの問題は、ターンオーバーによってかなりの部分をカバーすることができるが、このタイトなスケジュールの中で、試合ごとに変わるフォーメーションをそれぞれ十分に機能させるのは、どんな名監督にとっても極度に困難な仕事である。

選手が入れ替われば、チーム・バランスも微妙に変わるのは当然のこと。しかし、そこを微調整するための時間は、実質的に試合前日の1日しか与えられていないのだ。結果として、個々の試合におけるサッカーの「クオリティ」が落ちるのは、避けられない論理的帰結だろう。

元イタリア代表監督、アッリーゴ・サッキの「今やカンピオナート用とチャンピオンズ・リーグ用、2つの独立したチームを持たなければ、まともなスペクタクルをコンスタントに見せ続けることはとてもできない」という発言は確かに的を得ている。
 
そんなわけで、チャンピオンズ・リーグにおけるイタリア勢の戦いぶりも、結果はともかく内容的に見て、今のところまだまだ満足のいくものではない。
 
クラブ創立100周年をスクデットで飾り、創立当時のデザインを模したユニフォームで3年ぶりのチャンピオンズ・リーグに乗り込んだミランは、終始押されながらGKアッビアーティの大活躍によって何とか0-0の引き分けを確保したチェルシー戦(アウェイ)に続き、サン・シーロでの第2戦(対ガラタサライ)も、最終的には2-1で3ポイントを確保したものの、後半はゲームの主導権を完全に奪われてしまった。試合後、ベルルスコーニ会長が「今日は素晴らしいアッビアーティと頼りないミランを見た」と語ったほど。

期待のシェフチェンコは3トップのサイドアタッカーとして起用され、1試合に何度かその才能の煌めきを見せてはいるものの(セリエAとCLの5試合ですでに3ゴールは立派)、チームのメカニズムの中ではまだ十分に機能しているとはいえない。

本来攻撃の基準点となるべきビアホフがほとんどチャンスに絡んでいないことを見ても、ザッケローニ監督の「試行錯誤」が続いていることは明らかである。
 
やはり第1戦をアウェイで戦ったラツィオも、レヴァークーゼンに苦しい戦いを強いられた。ミハイロヴィッチのいつもの「飛び道具」が炸裂して、何とか1-1の引き分けに持ち込んだものの、内容的には完全に負けていたといっていい。第2戦では、ディナモ・キエフに先行されながら逆転で勝利を飾ったが、これは実力差を考えれば順当な結果でしかないだろう。

上に取り上げた発言からもわかるとおり、エリクソンは今のところ最も積極的にターンオーバーを活用し、成果を挙げている監督である。質・量ともにセリエAはもちろん、世界でも屈指の中盤(対抗できるのはバルセロナくらいか)とタイプの違う5人のFWを擁するラツィオのフォーメーションは、試合毎に4-5人が入れ替わる。

このチームにはもはや「レギュラー」という概念はほとんど存在しないといってもいいだろう。オーソドックスな4-4-2のシステムをベースに、「約束事」の比較的(あくまでも「比較的」だが)少ないサッカーを展開し、メンバーが入れ替わってもチーム全体としては安定したパフォーマンスを維持しようとするエリクソンのやり方は、最も時代の波に合った手法なのかもしれない。
 
イタリア勢3チームの中で最も苦戦しているのが、アーセナル、バルセロナと同じグループという厳しい組み合わせに直面したフィオレンティーナ。アーセナルとの第1戦(ホーム)は、カヌーがPKを外してくれたおかげで0-0の引き分けで済んだが、内容的にはもちろん判定負け。

続くカンプ・ノウでのバルセロナ戦では、TVでこの試合を解説していたアッリーゴ・サッキをして「ピッチの上ではひとつのチームだけがサッカーをプレーし、もうひとつのチームはそれを耐えているだけだった」と言わしめたほどの完敗(2-4)を喫した(余談だが、サッキの解説は素晴らしく興味深い)。

トラパットーニ監督は、今シーズンに向け、バティストゥータ、キエーザ、ミヤトヴィッチの3トップに加え、その下にルイ・コスタを置くという超攻撃的なフォーメーションを導入しようとしてきたが、結局うまく機能せず、ここ2試合は2トップ+ルイ・コスタという昨シーズンと同じシステムに戻している。

いずれにしても、サッカーのコンセプトは、ボールポゼッションにはこだわらず、自陣内でのボール奪取からのスピードに乗ったカウンターに賭ける、というもの。

しかしこのバルセロナ戦では、全く逆のコンセプトを持ったファン・ハールのサッカー(ボールを支配し、攻撃し続ける)に翻弄されるだけで、ほとんど反撃の糸口を掴めないまま試合を終えることになった。2次リーグ進出への道は多難である。

さて、国内リーグとチャンピオンズ・リーグ、2つのコンペティションに参加し、ターンオーバーを強いられながら毎週2試合を戦わなければならないという条件は、もちろんどの国のチームにとっても同じである。

その意味で、イタリア勢の戦いぶりがここまでのところ今ひとつだとすれば、それは単に、ヨーロッパのトップクラブの実力は今や非常に拮抗してきており、かつてのようにイタリアが欧州の舞台を支配すること(過去10年、常に欧州3大カップのうち最低1つでファイナリストに名を連ね、ひとつもカップを獲れなかったのは2回だけ)は不可能になったということでしかない。

考えてみれば、欧州各国のビッグクラブでは、自国の選手よりも外国人選手の方が多いというのがまったく普通になっているのだから、それも当然といえば当然である。物を言うのは資金力なのだ。この傾向は今後も更に進むだろうから、そのうちには「クラブの国籍」すらも、大した意味を持たなくなるのではないだろうか。

かつての欧州チャンピオンズ・カップは、各国の「チャンピオン」が国の誇りを賭けて戦う場だった。しかし、現在のチャンピオンズ・リーグには、その「スピリット」はほとんど残っていない。

そもそも、別にチャンピオンにならなくとも参加できるのだから、「チャンピオンズ・リーグ」という名称にも、もはや大した意味はない。「チャンピオン」といえるのは、クラブではなく、むしろそこでプレーしている選手たちの方だろう。

世界のトッププレーヤーが欧州のビッグクラブを舞台にオールスター戦を繰り広げる、という意味で、やはりこのコンペティションには「ヨーロッパ・スーパーリーグ」という名称の方がよほど似つかわしいだろう。たとえ、試合のクオリティや与えてくれるエモーションが、チャンピオンズ・カップのそれを水で薄めたようなものであるにしても…。

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。