4年前のドイツワールドカップ期間中に書いた原稿の棚卸しその7は、準々決勝でポルトガルにPK負けしたイングランドについて。結局エリクソンは動いて攻めるべき時に動かず、動かなくてもいい時に守りに動いて墓穴を掘るという消極的な采配から脱却することができませんでした。

今回のカペッロは、更にリアリスティックでシニカルな戦い方に徹するのでしょうが、どっちにしてもイタリアン・ジョブであることに変わりはありません。カルロやマンチョも含めて、イングリッシュの皆さんがどうしてイタリアンズを好きなのかは、まだうまく理解することができません(逆はとてもよくわかるんですが)。それとも単なる無い物ねだりか。

でも、ルーニーはセンターフォワードとしての能力が4年前とは比較にならないほど高くなっているので、もしカペッロがクラウチもヘスキーも使わずに4-1-4-1にしたとしても、同じ結末にはならないだろうと思います。GKのミスで負けることはあると思いますけど。

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2年前のユーロ2004準々決勝と同じく、PK戦でポルトガルに軍配という結末。前回はそれでも、1-1で延長に突入し、そこでも双方1点ずつ挙げて2-2でPK戦に突入するというスリリングな試合だったが、今回は最後まで試合が動かないままの「ゼロゼロPK」。見ている方にとってはストレスの溜まる試合になった。

イングランドとポルトガル、両チームがともに採用した1トップのシステムは、中盤の密度を高めてボールを支配したり、相手の攻撃を食い止めたりするのには有利だが、前線の「人口密度」が極めて低いので、2人目、3人目を送り込む戦術的工夫がないと、埒の明かない中盤での攻防に終始してしまう傾向がある。この試合はまさにその典型だった。

どちらのチームも、敵陣にボールを運ぶまでに時間がかかる上に、最前線でボールをキープしてタメを作る選手がいないので、なかなかシュートにつながる最終局面までたどり着かない。1トップを務めるルーニーもパウレータも、前半45分を通してボールに触った回数は数えるほどだった。

そして、後半に入って間もなく、試合の展開をさらに膠着させる方向に働く2つの不運がイングランドを襲う。51分、クロスやセットプレーで局面を打開できる数少ない存在だったベッカムが、足首を痛めて無念の交代。

さらに後半17分にはルーニーが、R.カルヴァーリョともつれた際に玉蹴りを食らわせたかどで(故意だったかどうかは微妙)、一発レッドを喰らってしまう。この時点で、これは十中八九「ゼロゼロPK」になるだろうと思ったのは、筆者だけではないだろう。

イングランドの敗因を、このルーニーの退場に求める見方もあるかもしれない。しかし実際には、その前後でイングランドの戦い方が大きく変わったわけではない。ルーニーはほとんど試合から消えていたからだ。

ルーニーは前を向いてボールを持った時が一番怖いストライカー。1トップに求められる資質であるポストプレー、そして裏のスペースへの走り込みは、どちらかと言えば苦手科目である。事実、この2試合とも、1トップとしてはほとんど機能していなかった。

オーウェンを欠いたエリクソン監督が、最終的に[4-1-4-1]を選んだのは、クラウチを起用してルーニーと2トップを組ませるより、1トップにしてでもジェラードとランパードが攻め上がりやすいように中盤の底をプロテクトした方が、ゴールという点で歩留まりがいいはずだと判断したからだろう。

ところが、ルーニーと並ぶ、あるいはそれ以上の得点源として期待していたランパードが絶不調。大会を通じてイングランドで最も多くのシュートを打ちながら、一度もゴールネットを揺らすことができなかった。エリクソン監督にとって最も大きな誤算はむしろ、チェルシーで20ゴールを決めてワールドカップに乗り込んだ、この“影のエースストライカー”の不振だったのではないだろうか。■

(2006年7月1日/初出:『El Golazo』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。