この10年のイタリアサッカー界を代表するスターであるアレッサンドロ・デル・ピエーロさんは、何度かロングインタビューをしたこともあり、それなりに思い入れのあるプレーヤーのひとりです。

ユーロ2000以来、2年ごとに行われるワールドカップと欧州選手権のたびに、「今度こそデル・ピエーロの大会になる」という原稿を意地で書き続けて来たのですが、一度も実現することなくここまで来てしまいました。

今日はこれから、ユーロ予選のイタリア対グルジアがあるのですが、イタリア代表のメンバーリストの中に、デル・ピエーロの名前はありません。その辺の話は、近々どこかに書くと思います。とりあえずここでは、ドイツ2006直前に今はなき『STARsoccer』誌に書いた、「今度こそ」シリーズ最終回をどうぞ。

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「デル・ピエーロはアズーリを象徴する偉大なプレーヤーだ。この大会はデル・ピエーロの大会になるだろう」

イングランドで行われるヨーロッパ選手権を目前にして、イタリア代表監督アリーゴ・サッキがこう語ったのは、96年のことだ。アレッサンドロ・デル・ピエーロは当時まだ21歳、”ユベントスの10番”をロベルト・バッジョから引き継いだ新進気鋭のファンタジスタの眼前には、輝かしき無限の未来が開けていた。

この予言の言葉は、その後も2年おきに、すなわちイタリアがビッグトーナメントに参加するたびに、時の代表監督の口から発せられることになる。しかし、予言はそのたびに裏切られてきた。

あれからちょうど10年、2度のワールドカップと3度のヨーロッパ選手権に参加し、常に主役としての期待を集めながら、デル・ピエーロは一度としてそれに見合った結果を残すことができずにいる。常に誰かとの競合に晒され、監督の心変わりの犠牲となり、故障でチャンスを逃し……。95年3月のA代表デビュー以来、11年間で72試合に出場、26得点は歴代5位(現役最多)の成績である。しかし、ビッグトーナメント本大会でのゴールは、たった2つに過ぎない。

アズーリの一員として臨んだ初めてのビッグトーナメント、ユーロ96では、初戦に先発したが前半45分であえなく交代。それが全てだった。イタリア自体も、伏兵チェコに足をすくわれ、屈辱的なグループリーグ敗退を喫する。

とはいえその後も、ユベントスでのキャリアは順風満帆だった。96年12月にはトヨタカップで決勝ゴールを決め、クラブ世界一のタイトルを勝ち取る。ペナルティエリア左角付近から、GKを巻くような弾道でファーポスト際に吸い込まれる美しいゴールを連発、「デル・ピエーロ・ゾーン」という言葉も生まれた。

ユベントスは96-97、97-98と2シーズン連続でスクデットを勝ち取り、チャンピオンズリーグでも3年連続で決勝進出を果たす。デル・ピエーロは常にその主役だった。自己最高の21ゴールを挙げた97-98シーズンには、23歳にして世界的なスターへの階段を登り詰めるかという機運が高まった。シーズン終了後に待ち受けるフランス98こそがその舞台になるはずだ、と誰もが期待していた。

ところが、ワールドカップを目前に控えたシーズン最後の試合、ボルシア・ドルトムントとのチャンピオンズリーグ決勝で、デル・ピエーロは左足ハムストリングに肉離れを起こしてしまう。後から振り返れば、この故障こそが、デビュー以来ひたすら上昇機運が続いてきたキャリアの、大きな分水嶺だった。

「このアズーリはデル・ピエーロのチーム」と明言していた当時の代表監督チェーザレ・マルディーニは、全治4週間という診断にもかかわらず、デル・ピエーロを招集メンバーに加え、回復を待つという決断を下す。世論のプレッシャーに負けて、ボローニャで22ゴールを挙げて完全復活を果たしたロベルト・バッジョも代表に招集していたが、この非常事態にもなお「バッジョはデル・ピエーロの控え」という序列を崩そうとしなかった。

だが、結果的にこの“温情策”は裏目に出てしまう。回復を待つ間にピッチに立ったバッジョが期待以上の活躍を見せて、アズーリの周辺には「バッジョか、デル・ピエーロか」という緊張が生まれた。故障明けのデル・ピエーロはプレッシャーに押し潰され、精彩を欠いたプレーしか見せられない。

逆にバッジョは、本来得るべき出場機会を“不完全なデル・ピエーロ”に奪われる格好となった。結果的にイタリアは、開催国フランスとの準々決勝で、0-0のままPK戦敗退を喫してしまう。イタリアの人々の心に残ったのは「もし最初からバッジョが出ていれば……」という思いと、デル・ピエーロに対する二度目の失望だった。

そして、このワールドカップから5ヶ月後の98年11月8日、24歳の誕生日の前日に、人生最大の災厄がデル・ピエーロを襲う。セリエAのウディネーゼ戦で相手DFと交錯、左膝に、半月板損傷、外側靭帯断裂、後十字靭帯裂傷、膝窩腱損傷という大怪我を負ったのだ。太もも(大腿骨)とすね(頚骨、腓骨)を結ぶ関節である膝の「部品」のうち、無事だったのは前十字靭帯ひとつに過ぎなかった。

これからキャリアの頂点に駆け登ろうという24歳の秋に受けたこの大怪我は、その後何年もの間、デル・ピエーロを縛ることになる。左膝が医学的に100%完治してからも、彼は“超一流のトップスター”と“並の一流選手”との境界線のこちら側にとどまり続けた。いや、今なおとどまり続けている。

長いリハビリを経てピッチに復帰しても、そのプレーにかつての閃きやキレは戻らなかった。相手を翻弄するはずのドリブルは簡単に阻まれ、何度シュートを打っても、枠を外すかGKに止められるかのどちらか。セットプレーではなく流れの中からゴールを決めるまでに、復帰から1年以上の時間が必要だった。

復活を期して望んだ2000年のヨーロッパ選手権も、まったくの期待外れに終わる。2歳年下のフランチェスコ・トッティとのポジション争いに敗れた末、途中出場した決勝では、2-0で試合を決める絶好のチャンス(GKとの1対1)を2度続けて外し、フランスの逆転優勝をお膳立てすることになった。イタリアの人々は、今度は「あそこでデル・ピエーロが決めていれば……」と呟き続けるしかなかった。三度目の失望である。

27歳で迎えたワールドカップ・日韓2002では、開幕直前にジョヴァンニ・トラパットーニ監督を襲った弱気の虫による心変わり(システムを3-4-1-2から4-4-2に変更)でポジションを失い、多くの時間をベンチで過ごすことになる。メキシコとのグループリーグ最終戦で決めた、イタリアを敗退から救う貴重な同点ゴールが、唯一の輝きだった。

そして、その2年後のユーロ2004では、初めてレギュラーとしてグループリーグ3試合に出場したものの、まったく影が薄いまま終わる。もはやイタリアは、デル・ピエーロに希望を託すことすらなくなっていた。人々の希望を一身に背負い、そしてそれを裏切るのは、いつの間にかトッティの役割になっていた。

ユーロ2004の後、長年にわたってユーベの監督として“師事”してきたマルチェッロ・リッピが、イタリア代表監督の座に就く。後任としてやってきたのは、優勝請け負い人として名高いファビオ・カペッロだった。カペッロの下でプレーしたこの2シーズン、デル・ピエーロはキャリアの中で最も困難な状況に直面する。長年にわたり確保してきた不動のレギュラーの座を奪われ、トレゼゲ、イブラヒモヴィッチに次ぐ“3番手”のFWという立場を強いられているのだ。

今シーズンの先発出場は、全体の半分にも満たない。ベンチでキックオフのホイッスルを聞き、後半に途中交代でピッチに立つという役回りがすっかり板についた感がある。健気なのは、時に不機嫌さを隠し切れないとはいえ、模範的な態度で監督の決断を受け入れ、しかもしっかり結果を残し続けているところだ。昨シーズンは14得点、今シーズンもここまで11得点。

ユベントスのキャプテンとして、それ以前にひとりのプロとして、監督の選択は黙って受け入れるのが筋。デル・ピエーロの責任感は、その筋を踏み外すことを自らに許さない。そのかわり、与えられた少ない時間に結果を積み重ねることで、評価とチャンスをもぎ取ろうという、フェアでくそ真面目な、そしてしんどい戦いをカペッロに挑み続けている。

「僕は自分を誰かのリザーブだと考えたことは一度もない。ピッチに立つとすれば、それは僕にその資格があるからで、誰かが欠場しているからじゃない」

その視線の先にあるのは、3度目の、そしておそらく最後となるワールドカップだ。イタリア代表におけるデル・ピエーロの立場は、ユーベにおけるそれよりもずっと良好だ。代表監督就任以来、リッピは一貫してデル・ピエーロの重要性を強調してきた。

「私が構想するチームは、デル・ピエーロの存在を前提にしている。私は彼を10年も指揮してきた。どんな選手かは他の誰よりもよくわかっている」

そして、どんな巡り合わせか、アズーリにおけるデル・ピエーロの存在感は、ワールドカップを目前にして急速に高まっている。2年前のユーロ2004で活躍し、次代を担うタレントと期待されたアントニオ・カッサーノは、常軌を逸したバッドボーイぶりに愛想を尽かされ、この1月、ローマを追われるようにレアル・マドリードに移籍。そこでもマージナルな存在にとどまっており、代表招集の目は今やほとんどなくなった。

アズーリ攻撃陣の中核を担うべきトッティは、2月半ばのセリエA・エンポリ戦で左足腓骨骨折、足首靭帯損傷という大怪我を負い、手術後70日間のリハビリを経て、やっとピッチに戻ってきたばかり。本番までにどれだけコンディションを取り戻し、本来の実力を見せられるか、予断を許さない状況にある。

この2つの予期せぬ偶然が積み重なった結果、デル・ピエーロは現在のイタリア代表において、トーニ、ジラルディーノという“Wセンターフォワード”を側面から支え、テクニックと創造性を武器にして攻撃にアクセントをもたらす“第3のアタッカー”として、ほとんど不可欠に近い存在になっている。

アズーリがその順調な仕上がりを証明した強敵相手の2つの親善試合、すなわち昨年11月のオランダ戦(3-1)と3月のドイツ戦(4-1)は、ともにトッティが故障欠場。3トップの一角を担ったデル・ピエーロは、どちらの試合でも質の高いプレーを見せ、いくつもの決定機に絡む主役級の活躍だった。いってみれば、現時点でのアズーリの完成型は、“第3のアタッカー”にトッティではなくデル・ピエーロを擁するバージョンの方なのだ。

“最後のワールドカップ”といわれれば、確かにそうかもしれない。だがデル・ピエーロにとってのこの大会は、もはや斜陽の時を迎えたジダンやネドヴェド、カーンにとっての、“引退興行”に近い意味合いすら帯びているそれとは、明らかに異なる。デル・ピエーロは「まだ」31歳、心技体の総合力から見ればまだピークに近いレベルを保っている。

しかも、本番を目前に控えた現在の状況は、彼にとってこれまでにないほど有利なものだ。まず、主役としての期待がない分、無用なプレッシャーが少ない。そして何よりも重要なのが、カペッロのおかげで(?)シーズン中の蓄積疲労が少なく、万全のフィジカルコンディションで本番を迎えられることである。

日韓2002、ユーロ2004の結果を見てもわかる通り、今やビッグトーナメントの行方を左右するのは、何よりもまずフィジカルコンディションである。この2大会とも、直前のシーズンで主役を張ったビッグクラブのスター選手たちは、ほぼ全員が期待を裏切った。過酷なシーズンを戦った末に、心身のエネルギーがすでに底をついていたからだ。

フィジカルコンディションが万全なら、モティベーションも折り紙付きだ。5度にわたる失望を経て、31歳で迎えた最後のチャンス。心の底では、アズーリでのキャリアを不完全燃焼のまま終わらせたくないという強い思いが、ふつふつと滾っているに違いない。

レギュラーの座が保証されているわけではないが、逆にその分、脇役からスタートして主役に躍り出るチャンスはある。82年のパオロ・ロッシ、90年のスキラッチ、98年のバッジョ。アズーリの主役はしばしば意外なところからやってきた。

後継者を云々するなどまだ早い。カッサーノ?まずは自滅回路のスイッチを切って自立することが先決だ。ジラルディーノ?彼はヴィエリの後継者ではあっても、リヴェーラに始まりバッジョ、デル・ピエーロと続くファンタジスタの系譜に連なるべき選手ではない。

デル・ピエーロは今なお、アズーリを象徴する偉大なプレーヤーなのだ。だから今こそあえて、高らかにこう断言しようではないか。「今度こそデル・ピエーロのワールドカップになる」と。■

(2006年5月1日/初出:『STARsoccer』)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。