ロベルト・バッジョさんは、自伝を翻訳する機会に恵まれたことも含めて、思い入れのある選手のひとりです。これは、2006年に彗星のごとく現れ、消えてしまった個性的なサッカー雑誌『STARsoccer』に書いたストーリー。
日本では宗教や信仰というとなぜかデリケートな話題だということになっているわけですが、バッジョというプレーヤー/人間をそれなしで語ることは不可能に近い、というわけで、あえて正面から取り上げてみたという原稿です。
1985年5月5日、アドリア海に面したリゾート地リミニでは、セリエC1(イタリア3部リーグ)のリミニ対ヴィチェンツァが戦われていた。ひなびたスタジアムに千数百人の観客を集めた、イタリアのちょっと大きな都市ならどこででも見られるありふれた下部リーグの試合である。
開始直後に、アウェーのヴィチェンツァが1点を先制する。ゴールを決めたのは、弱冠18歳のロベルト・バッジョ。レギュラーとして初めてのシーズンにもかかわらず、これで12ゴール目、得点ランキングでも4位に食い込んでいた。
バッジョは、早熟の天才児だった。地元カルドーニョのチームから13歳でヴィチェンツァに引き抜かれると、その翌年にはもう、トップチームで大人のプロにまじって練習していた。ユース時代には、120試合で110ゴールというとんでもない記録を残している。
当時の愛称は「ジーコ」。エレガントで華麗なボールさばき、誰の予想をも超えたプレーを生み出す溢れんばかりの創造性、そしてたくさんのゴール。我々が知る偉大なファンタジスタ、ロベルト・バッジョのすべては、もうすでにそこにあった。
ところが、先制ゴールからほどなく、数十年にひとりという稀有のタレントをイタリアの地に授けたサッカーの神様は、ほんの一瞬だけ気まぐれを起こす。
今も残っているその瞬間の映像には、ヴィチェンツァの赤いアウェーキットを身につけたバッジョらしき選手が、ボールを持った相手のディフェンダーを後ろから追いかけ、何かに躓いたように前につんのめって転ぶ場面が映っている。一見するとなんということもない、サッカーの試合の平凡な一コマだ。
だがそれは、その後のキャリアはもちろん、彼の人生そのものを最も深いところから縛り規定することになる、運命的な瞬間だった。倒れる直前、バッジョは右膝を不自然に捻っていた。右膝前十字靭帯および外側靭帯断裂、内半月板損傷、膝蓋骨骨折。当時の医学水準では、プレーに復帰できるレベルまで完治する可能性はわずかという、極めて重い怪我である。
数時間に及ぶ手術はすさまじいものになった。現在のように内視鏡手術などない時代の話だ。膝を大きく切開し、腓骨の上端にドリルで穴を空けると、靭帯を一旦切り離し、それを穴に通して引っ張ってから、220針かけて縫い合わせる。膝の中を220針、である。麻酔から覚めて、腕のように痩せ細った右足とメロンのように腫れ上がった膝を見たバッジョは、耐え難いほどの恐怖を抱き、そして絶望したという。
この絶望こそが、イタリアの至宝にして最大のファンタジスタ、ロベルト・バッジョの、プロフットボーラーとしての出発点だった。ゼロからですらない、マイナスからのスタート。右膝にざっくりと刻まれた切開の傷跡は、気まぐれを起こしたサッカーの神様がかけた呪いを刻印した聖痕のようだった。
事故から1年以上経っても、呪われた右膝の状態は完治にはほど遠かった。やっとピッチに立てるところまで回復して、試合に出たとたんにまた半月板を損傷する、という事故が二度にわたって続く。シジフォスさながらの果てしなき不条理を克服し、ヴィオラのシャツを身にまとったバッジョがついに復帰を果たしたのは、怪我からほぼまる2年が過ぎた、86-87シーズン終盤のことだった。
続く本格復帰1年目(87-88シーズン)こそ、29試合6ゴールという平凡な成績に終わったものの、バッジョはほどなくしてまばゆいばかりの輝きを発し始める。続く2シーズンは15ゴール、17ゴールを決め、一気にスターダムにのし上がる。
スピードに乗ったドリブルで蝶のように舞いながら迫り来るディフェンダーをかわし、さらにフェイントを繰り返してゴールキーパーにまで尻餅をつかせたあと、最後は無人のゴールに緩やかなグラウンダーを悠々と、そして柔らかく流し込む。バッジョ・スタイルともいうべき、痛快かつ美しいスペクタクルなゴールの連続に、フィレンツェは、そしてイタリアは魅了された。
純粋にテクニカルな観点から見れば、フットボーラーとしてのバッジョが最も輝いた時期は、フィレンツェで完全復活を果たした88-89シーズンから、イタリア代表での地位を確立したイタリア90、バロンドール受賞を挟んで、94年のワールドカップ・アメリカ大会に至る、
21歳から27歳までの6シーズンだったと言い切れる。この期間の通算成績(セリエAのみ)は、186試合・102ゴール。ほぼ常にレギュラーとしてピッチに立ち、毎年コンスタントに15-20ゴールを記録した。
しかし、呪われた右膝は、その間すらもバッジョの肉体と心を深く苛み続けていた。長いキャリアが終わりにさしかかった2001年の秋、34歳で出版した自伝『天の扉』(拙訳の日本語版あり)の中で、バッジョは初めてこう明かした。
「セリエAにデビューした時からずっと、ぼくは1本半の脚でプレーしてきた。右脚は左脚よりも細いし、機械時計みたいにな膝には、半月板なんて全然残っていない。こんな酷い膝を抱えていたら、他の人はとっくにサッカーを諦めているに違いない。この16年というもの、膝の痛みなしでピッチに立ったことは一度もないよ」
キャリアの後半になって膝の古傷がしばしばバッジョを悩ませたことは、誰もが知る通りだ。しかし、全盛期のバッジョが見せた、見る者を限りなく魅了した記憶に残る名場面のすべてが、常人にはとても耐え難いほどの膝の痛みとともにあったとは……。
ビデオやDVDで見直してみれば明白なことだが、全盛期のバッジョのプレーは「1本半の脚」で実現できるようなしろものではない。最も才能に恵まれた同時代のフットボーラーたちにすら不可能だった数々のプレーを実現するためは、「2本の脚」が必要だったはずだ。あらかじめ失われたはずの「0.5本の脚」は、いったいどのようにしてバッジョに宿ったというのだろうか。
「ぼくは自分のことを、信仰が生んだ奇跡だと思っている」これが、その問いに対するバッジョの答えだ。
バッジョが、日蓮宗から派生した仏教系の新興宗教・創価学会の信者であることは、広く知られている。バッジョがこの信仰と出会ったのは、2年間に渡る怪我との戦いからピッチに復帰したものの、イメージした通りのプレーができず苦しんでいた87-88シーズン半ばのことだった。
「最初ぼくは、自分がいかに不運かということにしか目が向かなかった。他には何も見ていなかったし、興味もなかった。存在するのは、ぼくの肉体と精神の痛みだけだった」
誰にも思いつかないようなプレーを、誰にもできないやり方で演じてみせる稀有な才能が自分には備わっている。そのことはバッジョ自身が誰よりもよく知っていたはずだ。しかし、あまりにもありふれた、つまらない怪我のおかげで傷つけられた肉体が、絶え間なく襲ってくる呪われた右膝の痛みが、それを妨げる。よりによってどうして自分にあの災いが起こらなければならなかったのか。説明のつけようがない不条理にバッジョの心が苛まれ続けたことは、想像に難くない。
そこに光を与えたのが、友人を通して出会った仏教の世界観だった。自分を見舞った不幸は、輪廻転生のサイクルの中で過去の自分が犯した過ちに対する報いであるという、いわゆる因果応報の考え方を受け入れ、それと向き合うことを通じて、バッジョは初めて、右膝にかけられた呪いに打ち克つことができた。
「ぼくは、戦わなければならないと悟った。その道を示してくれたのが信仰だった。生きる勇気を見出すために、信仰を実践しなければならなかったんだ。ぼくは、時には説明がつかないくらい強い決意と意思、自分の無意識、不可能に挑戦する喜びといったものをすべて注ぎ込んで、サッカーを続けてきた。それが普通じゃないということは、自分でもわかる。
時には頭が割れるほどの悼みに襲われることもある。でもそのまま前に進み、痛みを乗り越える。(……)他人の言うことには一切興味がない。もっと前に進むこと。唯一の違いはそこにしかなかった。他の連中はそこで諦めたけれど、ぼくは諦めなかった」
われわれ日本人は、宗教とか信仰という言葉そのものに、ネガティブな印象を抱く傾向を持っている。バッジョについても、創価学会が、仏教のオーセンティックな宗派ではなく新興宗教のカテゴリーに入る教団であるがゆえになおさら、偏見にさらされやすい部分がある。
しかし、宗派や教義以前に、信仰という行為が、どれだけ深く人の心を穿ち、どれだけ大きな力を人に与え得るのかに目を向けた時、バッジョの言葉は、そしてそれ以上に「1本半の脚」で戦い続けたそのキャリアは、我々の深いところで何かを響かせる。
27歳というキャリアの絶頂期で迎えた94年ワールドカップ・アメリカ大会、バッジョは独力でイタリアを決勝まで導く活躍を見せながら、決勝でのPK失敗で悲劇のヒーローとなる。クロスバーを越えてカリフォルニアの青空に吸い込まれたシュートを呆然と見届け、がっくりと肩を落とす姿は、この大会のイコンともいえる映像となった。
そしてそれは、あるひとつの時代の終わりをも象徴していた。果たしてそこから先、本来ならばフットボーラーとしての黄金期となるべき30歳前後の5年間は、バッジョにとって大きな受難の時代となった。
ユヴェントス最後のシーズンには、またも呪われた右膝を痛めて4ヶ月近い戦線離脱を強いられ、シーズン終了後、アレッサンドロ・デル・ピエーロの台頭に押し出されるようにしてミランに移籍。そのミランでは、しばしばレギュラーからも外れることになった。
我々が再び“真のロベルト・バッジョ”を見ることができたのは、ミランで空白の2年間を過ごした後、フランス98での代表復帰を目指して、ボローニャに新天地を求めてからのことだ。97-98シーズン、ウリヴィエーリ監督との確執にもかかわらず、バッジョは自己最多のシーズン22ゴールを挙げ、アズーリの一員としてフランス98を戦うことになる。しかし、その後移籍したインテルでの2年間も、リッピ監督との“戦争”に象徴されるように、幸福な日々とはいえなかった。
2000年夏、インテルとの契約を満了してフリーになった33歳のバッジョに、オファーを出して獲得に乗り出そうというクラブはなかなか現れなかった。パルマ、ローマ、ラツィオといったスクデットを狙うクラブはもちろん、古巣のフィオレンティーナ、ボローニャ、ヴィチェンツァですら、名乗りを挙げようとはしなかった。ボロボロになった膝を抱えたファンタジスタは、すでに「終わった選手」だと見られていたのだ。
イングランドや日本など、外国のクラブからのオファーはあった。日本からのオファーは、年俸約9億円という「ぼくのような選手にとってすら分不相応と思えるくらいの、嘘のような内容」(バッジョ)だったという。しかしバッジョはイタリアにこだわった。それは、自身にとって4度目となるワールドカップを目指すことを堅く決心していたからにほかならない。
最終的に選んだのはブレシアだった。獲得を強く主張してクラブの会長を説得したカルレット・マッツォーネ監督との間には、これまでのどの監督との間にも築かれたことがない、深い信頼と愛情が生まれた。それは、マッツォーネがシステムや戦術ではなく、選手を出発点としてチームを作り上げる、今では稀になった旧世代の監督であったことと無関係ではない。
マッツォーネは、バッジョを中心に据え、バッジョのためにオーダーメイドされたチームを作り上げた。バッジョ獲得の翌シーズン、前年17ゴールを決めたスピード型のFWフブナーを放出し、バッジョと相性のいいポストプレーヤー型の大型FWトーニ(今セリエAの得点王争いを独走しているあのトーニだ)を獲得したことは象徴的だ。
ブレシアでは、世界そのものがバッジョを中心に回っていた。30代半ばにさしかかり、髪の毛にも白いものが目立ち始めていたバッジョは、もはやDFを次々と抜き去りGKに尻餅をつかせる、蝶のような舞いを見せることはなかった。
消耗を避けるためにワンタッチ、ツータッチでボールを処理しつつ、周囲の選手を動かして攻撃をオーガナイズしながら、1試合に必ず何度か、ここぞという時に限られたエネルギーを爆発させ、決定的な違いを作り出す珠玉のプレーを見せる。それが、見る者を魅了し心を震わせるプレーであることには、もちろん変わりがない。一切の無駄を切り捨てた老練かつエッセンシャルなプレースタイルこそ、バッジョが到達した成熟の境地だった。
ブレシアは、つまるところセリエA残留を唯一最大の目標とする弱小チームでしかない。バッジョが最後に見出した安住の地は、スクデット争いとも、チャンピオンズリーグという華やかな表舞台ともまったく無関係、フットボールの世界の周縁に位置していた。
しかしそこは、セリエAという殺伐たる砂漠の片隅に広がる、緑生い茂る涼しいオアシスのような場所だった。そして、そこでプレーするバッジョは、試合の勝ち負けを含めてあらゆる利害から解き放たれ、全てを超越した次元で存在し続けているように見えた。
誰からも尊敬と賞賛の念を持って三顧の礼で遇される聖人のような存在。両膝に刻まれたいくつもの聖痕からカリスマ性に満ちたオーラを放ち、戦いの場であるピッチの上ですら誰ひとり指一本触れることもできない、絶対不可侵の身体。蛮勇を振るって聖バッジョを削りに行く、罪作りなディフェンダーはひとりもいなかった。
ブレシアでプレーした現役最後の4年間、バッジョは、度重なる故障欠場にもかかわらず、毎シーズン2ケタ得点を記録している。33歳から37歳までの4年間で45ゴール。
サッカーの神様に祝福されて生まれながら、その神の気まぐれで右膝に聖痕を受け、1本半の脚で戦うことを強いられた男は、孤独の中で信仰を通して自らの内面に力を見出し、ついにはすべてを超越した孤高の存在として、19年にわたるキャリアに幕を引いた。
セリエA通算205ゴールは、歴代5位の記録である。その上にいる4人はすべて、純粋なセンターフォワード、しかも今とはまったく別のサッカーが行われていた1960年代までに活躍した選手だ。そう言えば、この記録の偉大さが伝わるだろうか。
バッジョは自伝の中で、歴史に残る偉大な選手は、と聞かれて「ペレ、マラドーナ、バッジョ」と誇り高く3つの名前を挙げ、それからこう訂正する。「冗談だって。あの2人は別世界の住人だよ。ぼくはそれに続くグループの中の1人だと思っている」。
客観的に見れば、より説得力があるのは訂正後の自己評価の方だろう。しかしそれは、半分壊れた右膝を抱え、1本半の脚で築かなければならなかったキャリアの話である。もし、85年5月のあの日、サッカーの神様が気まぐれを起こしていなければ……。■
(2006年1月29日/初出:『STARsoccer』第2号)