EURO2008の開幕以来、恒例の夏休みをいただいていましたが、9月に入って新シーズンも始まったので、このアーカイヴの更新を再開します。定期的に読んで下さる方はもうほとんどいないと思いますが、検索で引っかかって見に来られる方はいると思うので、お役には立てるかな、と。もしよろしければ、他のエントリーもご一読ください。

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セリエAが冬休みに入った隙に乗じて一時帰国した際に、西部、木村両大人との新春座談会に参加させていただいた。そこで出た中で興味深かったもののひとつが、日本は確かに強力なストライカーが生まれにくい社会だけど、強力なストライカーがどんどん出てくる社会は、サッカー的にはともかく一般的にはいい社会なのかどうかわかんないよね、という西部さんの話だった。

それで思い出したのが、最近あるDVD付きムックのための企画で、イタリアきっての理論派監督が分析してくれた「偉大なストライカーと並のストライカーの決定的な違い」である。

過去10年間のセリエAで何年か連続して2桁ゴールを挙げたストライカーたち、すなわちシェフチェンコ、トレゼゲ、ヴィエーリ、トッティ、クレスポ、インザーギ、モンテッラ、デル・ピエーロ、少し過去に遡ってバッジョ、シニョーリ、バティストゥータ、ビアホフ、ウェア、ヴィアッリといった面々のプレーを分析してもらったのだが、そこから出てきた結論は次のようなものだった。

「偉大なストライカーはそのほとんどが、ゴールを決めるためだけにプレーし、それ以外のことには関心も持たなければ貢献もしない、極度に単機能的なプレーヤーである」。

少し具体的に見て行くことにしよう。
技術的に見ると、彼らは決して万能とはいえない。彼ら全員が卓越したレベルで備えている能力は、ほとんどの場合2つだけである。ひとつはシュート、しかもボールを止めずダイレクトで蹴る技術。これは全員に共通している。そこにもうひとつ、ヘディングか1対1突破のどちらかが加わるのだが、それ以外の項目、つまりトラップ、パス、ロングパス、クロスなどは、多くの場合ごく平凡なレベルでしかない。

試合中のプレーを観察すると、彼らは総じて、他のプレーヤーよりもボールに触れる回数が少ない。これは、攻撃を組み立てるプロセスではあまりプレーに参加しないためだ。参加せずに何をしているかといえば、今展開しているプレーからどのようにして前線にボールが届くかを絶えず想定しながら、それに備えて動いているのである。彼らは常に、セットプレーを除くゴールの約75%が生まれる、ペナルティエリア中央のゾーンに入り込むことを狙っている。

一旦ボールを持ったときのプレー選択が直感的で、合理性に欠けているのも彼らの特徴だ。パスすべき状況で強引にシュートを打ったり、ダイレクトではたくべき状況でトラップして前を向き、リスクの大きい突破を仕掛けたりする。

プレー選択の基準は非常にエゴイスティックで、その視野からは敵DFや味方の存在がしばしば抜け落ちている。一般論として言えば、常に最も合理的で妥当な選択肢を選ぶプレーヤーがいいプレーヤーだということになるわけだが、その観点からいえば彼らはまったく褒められたものではない。

当然ながら、戦術的なタスクの遂行能力は非常に低い。とりわけ守備のタスクは、興味も意欲も持っていないため、与えてもまったく当てにすることはできない。攻撃においても、組織的な攻撃パターンの中で機能させようとするとうまく行かない。これはおそらく、自分とボールとゴール、その三者の位置関係以外は、あまり意識していないためである。

こうしたプレーヤーは、監督にとっては非常にやっかいな存在である。なにしろ言うことを聞かない。プレッシングもしなければ、決められた動きのパターンを守ることもしない。戦術的にはまったく計算が立たないと言っていいだろう。

だが皮肉なのは、より多くのボールに触れ、チームのために献身的に働き、リスクの少ない合理的なプレーを常に選択し、エゴイスティックなところがないフォワード、すなわち戦術理解力、タスク遂行能力が高い、監督に好かれるタイプのフォワードは、彼らよりもずっとゴールの数が少ないという事実である。

逆に言えば、偉大なストライカーというのは、ほぼ例外なく、自分勝手で協調性がなく、強引で、能力的にもあきらかに偏りがあり、好きなことしかやらず、回りには苦労ばかりかけるけれど、誰よりも得意なことがひとつだけあって、それに成功するとどうだ文句あっかと開き直るようなタイプだということだ。

確かにこれは、日本の社会ではなかなか受け入れられにくい人物像に違いない。日本サッカー協会統一指導指針に則ったエリート教育からは、間違いなく出てこないタイプである。Jリーグの得点ランキング上位が外国人ストライカー(想像だけで言うが、きっとみんなこういうエゴイスティックなタイプに違いない)で占められていることも、それと無関係ではないだろう。

話を最初に戻すと、こういう奴がたくさん出てくる社会がいい社会かどうかは、確かに議論の分かれるところだろうと思う。個人的には、こういう奴が出てくるのを許容できない社会もまた、一般的に見ていい社会ではないんじゃないかという気がするけれど。□

(2007年1月13日/初出:『footballista』連載コラム「カルチョおもてうら」)

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。