ユヴェントス史上唯一のセリエB降格シーズンを追った月イチレポートの第3回。この時にゼネラルディレクターとなったジャン・クロード・ブランは、2015年にユヴェントスを離れて現在はパリ・サンジェルマンのGDになっています。そのブランとコボッリ・ジリが進めた反ジラウド/モッジ路線の経営は、サッカークラブ経営のエキスパートが不在だったこともあって期待したほどの結果を残すことができず、2011年にウンベルト・アニエッリの息子アンドレアが会長として乗り込む形で終焉を迎えることになりました。ユーヴェのその後の復活ぶりはご承知の通り。ちなみにアンドレアは「父の番頭」だったジラウドとは師弟関係に近い昵懇の仲で、今でも週1-2回はゴルフのラウンドを共にしているとか。

bar

12月12日のヴェローナ戦に1-0の勝利を収めたユヴェントスは、15節を終えた時点で早くもボローニャと並んでセリエBの首位に立った。

シーズンの3分の1強を過ぎた時点ですでに、マイナス9ポイントのペナルティをはね返したことを考えれば、ここから独走態勢を築くまでは、それほど長い時間は必要としないように見える。

他チームの状況を見ると、首位からわずか4ポイントの間に6チーム、7ポイントの間に11チームが固まる大混戦となっており、当分は潰し合いが続くことになりそうであり、ここまでと同じペースで勝ち点を積み重ねていけば、遠からず首位の座は安泰となりそうな計算だ。

その足がかりをつくる最初の機会となるはずだった12月15日のチェゼーナ戦は、しかし、その日の午後に起こった悲しい出来事のために中止・延期となってしまった。今シーズン、トリノ郊外のヴィノーヴォにオープンしたばかりのトレーニングセンター“モンド・ユーヴェ”で、育成部門の2人の選手が敷地内の貯水池で溺死するという、考えられない事故が起こってしまったのだ。

亡くなったのは、ベレッティ(プリマヴェーラに次ぐ2番目のカテゴリー)に所属するGKリッカルド・ネーリとDFアレッシオ・フェラモスカの2人で、ともに17歳。練習を終えた後、貯水池に落ちたボールを拾おうとした時に、周囲に敷かれたビニールシートに滑って水にはまってしまったものと見られている。2人とも泳げなかったわけではないが、すでに陽が落ちており周囲は暗かった上に、気温は5度以下。おそらくパニックに陥ってしまったのだろう。

悲報が伝えられた時、クラブの役員陣とトップチームの選手、スタッフは、21時キックオフ予定のチェゼーナ戦に向けて、すでにスタディオ・オリンピコに入っていた。コボッリ・ジーリ会長をはじめとする首脳陣は、すぐに試合の中止・延期を決断、スタジアムを埋めていた観客にも、試合開始20分前の20時40分にもその旨が伝えられた。

ユヴェントスは1985年、チャンピオンズカップの決勝で「ヘイゼルの悲劇」というサッカー史上最悪のスタジアム事故を経験している。UEFAの決定に従ったこととはいえ、39人のサポーターが圧死したにもかかわらず試合を戦ったことは、クラブ史上初めてのビッグイヤー獲得にとって大きな汚点となった。

クラブの歴史的記憶に刻まれたこの出来事もあってのことだろう、トップチームには直接関係のない事故であったにもかかわらず、首脳陣の判断は素早かった。

「ショー・マスト・ゴー・オン」というビジネスの論理ではなく、「サッカーの試合よりも人命の方がずっと重要で尊い」という人間的な感情を優先したこの判断には、紳士的でフェアな「ユヴェントス・スタイル」の復活を掲げる新経営陣の姿勢が、端的に表現されていると評価することができる。

ここで振り返っておきたいのは、ユヴェントスのオーナーであるアニエッリ家は、カルチョスキャンダルが表面化すると、腐敗の元凶とされたアントニオ・ジラウド前代表取締役、ルチアーノ・モッジ前ゼネラルディレクターなど旧経営陣を一掃、いち早く新体制を確立してクリーンな形での出直しを図ったという事実である。

ユーヴェの旧首脳陣は、94-95シーズンにクラブの実質的な経営権を握って以来、12シーズンでスクデット7回、チャンピオンズリーグ1回(決勝進出4回)という輝かしい栄光の時代を築いてきた。その背景にどのような腐敗の構造があったのかは、カルチョスキャンダルで暴かれた通りだ。

しかし、少なくともスキャンダルが表面化した段階では、オーナーのアニエッリ家には旧首脳陣を擁護する、あるいはそうでなくとも判断を留保して事態の推移を見守るという選択肢もあったはずだった。

にもかかわらずアニエッリ家は、スキャンダルが勃発するとすぐに、ジラウド、モッジという旧経営陣をまったく擁護することなく、逆にはっきりと距離を取ったばかりか、スポーツ裁判が始まるのを待たずに彼らを切り捨てて経営陣の総入れ替えを敢行、過去とのつながりを一切断ち切って出直しを図った。これは大きな決断だったといえるだろう。

この選択の意味を読み取る上で見逃すことができないのは、そのアニエッリ家自体も、非常に重要な世代交代のプロセスを経てきたばかりだったという事実である。

ユヴェントスがアニエッリ家の所有となったのは、創業者の息子にあたるエドアルドがクラブの経営権を買い取った1923年のことだ。

その後、第二次大戦直後の1947年から2004年まで、エドアルドの息子であるジョヴァンニ、ウンベルトの兄弟が、60年近い長きにわたってトップに座ってきた。旧経営陣のキーパースンだったジラウドは、フィアットグループ内でウンベルト・アニエッリの片腕を務め、そのウンベルトが直々にユーヴェに送り込んだ人物だった。

グループの総帥として絶対的な権力を誇ったジョヴァンニが2003年に死去し、翌年、その後を追うようにウンベルトも世を去った後、アニエッリ家の後継者となったのは、ジョヴァンニの娘マルゲリータと、ユダヤ系アメリカ人作家アラン・エルカンとの間に生まれた(つまりジョヴァンニの孫にあたる)ジョン・エルカンだった。

1976年生まれで今年30歳になったばかりの若き後継者は、当初、ユヴェントスに対して積極的に関わろうという姿勢を見せていなかった。おそらく、大叔父ウンベルト(祖父ジョヴァンニではなく)が送り込んだ旧首脳陣に対する遠慮もあったのだろうが、それ以上に、ジラウドやモッジの経営手法に対する違和感(嫌悪感という表現が言い過ぎならば)が強かったためと思われる。

それは、2ヶ月ほど前に、あるインタビューでジョン・エルカンが語った次のようなコメントに、はっきりと表れている。

「前経営陣のやり方はもう過去のものになりました。このところ何年か、ユーヴェは世間の反感を買う存在でしかなかった上に、人々に微笑みをもたらす存在ですらなかった。これからは企業としてのイメージも変わっていくでしょう」

実を言えば、すでに昨シーズンの半ば頃に、モッジ、ジラウドという当時の首脳陣が遠からずユーヴェを離れるのではないかという観測が囁かれるようになっていた。

その根拠となったのは、2005年9月、モッジがローマのフォルツァ・イタリア本部にベルルスコーニを訪ねた出来事(ミラン経営陣入りを打診されたと報道された)であり、2006年の初頭に『ラ・レプブリカ』紙がスクープした、ジラウドは2006年6月末に切れる代表取締役の契約を更新しないだろうという見通しだった。

つまり、カルチョスキャンダルが表面化する何ヶ月も前から、すでに水面下ではモッジ、ジラウドをお役御免にしようという動きが始まっていた可能性もあるということだ。事実、カルチョスキャンダルの火種となったトリノ検察局の捜査資料の一部は、2005年9月の時点ですでに、FIGC首脳の手に渡っていたのである。

カルチョスキャンダルの勃発そのものに、アニエッリ家の意志が関わっているという見方は、三文スパイ小説的な憶測に過ぎるだろう。しかしカルチョスキャンダルが、若き後継者がオーナーとしての発言力を全面に打ち出し、積極的にユヴェントスに関わり始める大きなきっかけとなったこと、これは間違いない。

アニエッリ家のユーヴェに対するスタンスが端的に表れているのは、新たに送り込まれた現経営陣の顔ぶれである。

これまで名誉職だった会長には、フィアットグループ関連の出版社、百貨店などの役員を歴任してきたジョヴァンニ・コボッリ・ジーリを任命、経営の実権を委ねた。

実務レベルの最高責任者である代表取締役には、ツール・ド・フランス、ダカールラリー、全仏オープンなどのオーガナイザーを務めたヨーロッパでも指折りのスポーツイベントディレクター、ジャン・クロード・ブラン(すでに2005年初めには役員に名を連ねていた)が就任した。2人は共に、カルチョの世界とは直接縁のないマネジメントのエキスパートである。

コボッリ・ジーリ会長は、就任後の記者会見で、この人事についてはっきりとこう述べている。「経営陣にサッカー界の人間が少ないのはオーナーの明確な意志によるもの。カルチョの世界が持つある種の価値観からは独立した経営が必要だという判断だ」。

その「ある種の価値観」にどっぷり漬かった前経営陣が、ユヴェントスというクラブ、ひいてはアニエッリ家にどれだけ大きな経済的、イメージ的損害をもたらしたかは、改めて繰り返すまでもないだろう。

ジョン・エルカン自身は、先に触れたインタビューで次のように語っている。

「もし本気でユヴェントスを手放そうと思ったのなら、これほどいい機会もなかったでしょう。しかし私たちは、新しいチャレンジをすることを選び、ユヴェントスに改めてコミットすることを決意しました。高い目標を掲げ、その実現に向けて進んでいきます」

しかし、“先代”のジャンニ・アニエッリにとってのユヴェントスが、生涯を通じての情熱であり愛情の対象であったのと比べると、若き後継者とユーヴェとの関係は、もっとクールでビジネスライクなもののようだ。

「私にとって、そして家族のほとんどにとって、ユーヴェへの情熱は、祖父の存在を通して強く感じるものでした。ユーヴェの成功が嬉しかったのは、何よりも祖父の喜ぶ姿を見るのが嬉しかったからです。それを別にすれば、ユーヴェはグループ企業のひとつであり、企業としての論理に添って運営されるべきものです」

その企業としての再建のビジョンについて、当初、コボッリ会長は次のように語っていた。

「1年でのセリエA復帰は絶対命令。すでに策定された中期的な経営計画も、それが大前提になっている。ユーヴェが本来いるべき場所に戻るまで、最も楽観的に見て3年、計画では5年を見込んでいる」

しかし、CONI審議委員会の調停によるペナルティの“ディスカウント”によって、現時点ですでにA復帰の展望が大きく開け、すでに来シーズンからの具体的なビジョンが描けるようになったこともあり、経営陣の発言もここに来てさらに強気なものになってきている。

「セリエAに復帰したら1年目からスクデットを目指す。そのための土台はすでに築かれつつある。できる限り早くイタリアの、そしてなによりヨーロッパのトップレベルに復帰することが、我々の望みだ」(コボッリ会長)

「ユヴェントスは、欧州サッカー界のフェラーリを目指す」(ブラン代表取締役)

ご存じの通り、フェラーリは世界最高峰のスポーツカーファクトリーであり、F1レースで常に頂点を争うスクーデリア(レーシングチーム)を所有している。F1におけるフェラーリのような存在になる(あるいは戻る)ことが、ユーヴェ再建計画の到達点ということである。

1994年に旧経営陣が就任して以来、ユーヴェには一切資金を拠出してこなかったアニエッリ家も、これからの数年間は計画的な投資を行う意向を持っているといわれる。しかしそれも、ベルルスコーニやモラッティがミランやインテルに対して行っているようなパトロン的な資金提供とは一線を画す、グループ企業に対するテコ入れの一環という位置づけになりそうだ。

ジョン・エルカンはこうコメントしている。

「祖父がプラティニを獲得した時のように、ワールドクラス獲得のためにアニエッリ家が財布を開くことはないでしょう。もう時代が違います。それよりもむしろ、育成部門に力を入れて、新しいベッテガ(70年代に活躍した生え抜き最後のスター選手。前副会長)を生み出したい。生え抜きの選手がトップチームで活躍するようになってほしい。スター選手を買うのと比べてコストがかからないとは限りません。投資しても選手が育ってくれるかどうかはわからない。しかし、目指す方向はそちらにあります」

ブラン代表取締役もこう語る。

「昨シーズンまでのユーヴェのように、スター選手を買い集めたチームを作るつもりはない。もっと違う新しい経営モデルを提示したいと考えている。具体的には、偉大なプレーヤーとクラブ生え抜きの選手をミックスしながら、トップレベルの競争力を保ち続けるチームを作りたい。一朝一夕にできることではないが、その土台はすでに整っている」

偉大なプレーヤーと生え抜きのミックス、というと、誰もが思い浮かべるのは、レアル・マドリードの「ジダネス&パヴォネス戦略」だろう。マドリードでの試みは、やり方があまりに極端だったこともあり成功しなかったが、果たしてトリノではどうなるのか。あと数ヶ月のうちに打ち出されることになっている、中期的な経営戦略構想の内容に注目したいところだ。■

(2006年12月21日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

By admin

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。