さきのEURO2016でウクライナのチームスタッフとしてベンチから怖い顔で選手たちを叱咤激励していたアンドリー・シェフチェンコが、そのウクライナ代表の新監督に決まりました。助監督として呼ばれたのが、ミラン時代のコーチだったマウロ・タソッティ。アリーゴ・サッキ、ファビオ・カペッロが率いた90年代のミラン黄金時代を支えた右SBであり、カルロ・アンチェロッティからフィリッポ・インザーギまで00年代以降の指揮官たちを助監督として支えてきたタソッティは、ベルルスコーニよりも古くからミランに籍を置くクラブ最古参のレジェンドでした。そのタソッティの新たな門出を祝福して、4年前(2012年)に行った長いインタビューを。この時にはまだミランもちゃんとしたクラブでしたが、この後の4年間で急速にグダグダになっていくのでした。

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――あなたがラツィオからミランに移籍してきたのは1980年、20歳の時でしたよね。

「そう。もう32年も経ってしまったよ」

――当時、これだけ長いことここで過ごすことになると想像できましたか?

「いや、まったく想像できなかった。普通、カルチャトーレ(フットボーラー)の人生にはたくさんの引っ越し、移動がつきものだからね。選手としてひとつのクラブでキャリアを送ることすら想像できなかったのに、引退した後もコーチとしてここに残っているわけだからね。32年というのは本当に長い時間だ。でもそのことには心から満足しているよ」

――これだけ長い年月をひとつの場所で過ごすことになった理由はどこにあったと思いますか?

「私に関して言えば、ミランというビッグクラブに移籍してきたことが大きかった。移籍してきた時ミランはセリエBに落ちたところで、クラブは困難を抱えていたけれど、イタリアを代表するビッグクラブであったことに変わりはない。私にとってミランは通過点ではなくて到達点だったんだ。最初の何年かは苦しい時期が続いたけれど、その後は本来いるべき場所に返り咲いて、多くのタイトルを獲得した。そしてその間私もこのクラブにふさわしい選手になろうと努力して、それなりの実績を積み重ねてきた。その結果、ミランで長くキャリアを送ることができたんだ。引退後は引退後で身の回りにいろいろなことが起こって、私は監督としてここに残ることを決めて、最初はユース、その後はトップチームでコーチを続けている。こうして気がついたら32年も経っていたというわけ」

――ここは自分の場所だと感じるようになったのはいつ頃からでしたか?

「“サッキのミラン”がタイトルを勝ち取り始めた時期からだね。サッキの下で初めてスクデットを勝ち取ったのは28歳の時だ。決して若くはなかった。そこからチャンピオンズカップを戦うようになって、ベルルスコーニ会長の黄金時代が始まった。その時には、このままミランでキャリアを終えたいと思うようになっていたな。それからも94年のワールドカップを経てその次のシーズン、35歳になるまではずっとレギュラーだったから、ミランでプレーを続けるのは自然なことだった。そしてその後出場機会が少なくなった時に、それでもここに残ってキャリアを全うするという決断を下した。他で30試合やるよりもここでトップレベルの試合を15試合プレーすることの方を選んだんだ」

――例えばドナドーニがそうだったように、キャリアの最後に外国でプレーしようという気持ちにはなりませんでしたか?

「ノー、ノー。それは全くなかった。私が引退した時にはもう37歳だったし、本来なら1年早く止めているはずだったのに、会長に説得されてもう1年続けたという経緯もあった。だからそのまま引退するのが自然なことだった」

――選手としてのキャリアで一番の思い出は?

「バルセロナで初めてチャンピオンズカップを勝ち取った時だね」

――キャプテンとしてカップを掲げた94年のアテネではなくて?

「いや、最初の方が印象はずっと強い。あれは本当に特別な喜びだった。確かにアテネでは決勝のキャプテンを務めてカップを受け取ったし、相手もクライフのバルセロナという強敵だった。でもステアウアに勝ったバルセロナでの決勝は、サポーターも含めて私たち全員にとって、何もかもが初めての体験だったんだ。8万人ものミラニスタで埋まったカンプノウであこがれのカップを勝ち取ったわけだからね。あの興奮と感動は一生忘れないだろう」

――ミランにはあなたのように、レギュラーじゃなくなってもこのクラブに残ってキャリアを全うしたいと明言する選手が少なくありません。バレージやマルディーニのような生え抜きはもちろん、ガットゥーゾ、アンブロジーニ、インザーギ、セードルフのように外から来た選手もそうですよね。何がそういう気持ちにさせるのでしょう?

「ミランというクラブとの関係だろうね。ここでは選手だけでなくクラブの首脳陣も、ずっと長い間顔ぶれが変わらない。ベルルスコーニ会長、ガッリアーニ副会長、ブライダTDを筆頭に、クラブオフィスでもここミラネッロでも、もう長年同じ顔がミランを代表している。それも我々をミランに結びつけている理由のひとつだ。もしトップやマネジメントの顔ぶれが2、3年ごとに変わって行ったら、クラブと安定した関係を築くことは不可能だろう。私はもうガッリアーニやブライダと20年以上つきあっている」

――それとは反対に、サッカー界全体を見るとひとつのクラブでキャリアを全うする、ひとつのクラブに結びつくことがますます難しくなっているように見えます。それについてはどう思われますか?

「経済的側面による部分が大きいと思う。ひとつの選択を下す時には誰にとっても無視できない側面だからね。選手にとってはもちろんだが、クラブの立場から言っても、主力選手を引き留めるために金銭的に無理をすることもあれば、別の道を選ぶこともある。資本力で明らかに上回る相手に対抗しようとしても無理だからね。ミランでもシェフチェンコやカカをめぐってそれが起こった。チームの大黒柱が経済的側面によって移籍していったというのは、彼らが初めてだ。それまでは一度も起こらなかったからね。しかしクラブはそういう選択をせざるを得なかった」

――もうひとつ、ミランではカッサーノやイブラヒモヴィッチのように、他ではトラブルメーカーと呼ばれたような選手も、チームの一員として大人しく振る舞っています。これにも秘密があるのでしょうか?

「チームマネジメントにとって一番の特効薬は結果だ。イブラとカッサーノがやって来た昨シーズンはスクデットという大きな結果を勝ち取ることができた。これが彼らをコントロールする上でも大きな助けになったことは間違いない。それにミランというクラブの環境も大きいと思う。ミランはビジネスライクに組織されたクラブのように見えるかもしれないが、内部にはファミリー的な側面も色濃く残っている」

――勝つことはマネジメント上それほど重要なのですか?

「そうだ。何をすべきか、何をしてはならないかを教えるにしても、物事がうまく行っている時はずっと受け入れられやすい。試合で誰を使って誰を外すという決断となればなおさらだ。しかし物事がうまく行かなくなると、それらすべてが難しくなる。何を言っても説得力がなくなるし反論が出てくるからね。内部からも外部からも。イタリアというのはそういう国だ。それまでいくら結果を残していても、2試合続けて負ければそれ以前のことはすべて忘れ去られて、すべてが議論の的になる。そうなってしまうと、何もかもが難しくなってくる」

――ミランは、さっき話題に出たサッキの時代以来、ほぼコンスタントに強いチーム、喝チームであり続けています。その継続性の秘密はどこにあるのでしょう?

「サッキはミランのメンタリティに大きな変革をもたらした指揮官だった。幸運なことに、ミランはその薫陶を受けた選手をつい数年前までチームに置いておくことができた。サッキの時代を知る最後の選手はマルディーニだった。私たちはチームの中で、サッキがミランに植え付けた”勤勉さのカルチャー“をずっと受け継いで来たんだ。このカルチャーを新しく入ってきた仲間に伝えていく選手がいるというのは、チームにとってとても重要なことだった。おかげで今もここミラネッロにはそれが受け継がれ、生きているんだ」

――当時を知るあなたが今もロッカールームの中に残っているというのは、その意味でとても重要なことなのでしょうね。

「そうだろうね。私もそれを伝えようとしてきたから」

――ミランというクラブを語る時、あなたたちはとてもよく“ファミリー”という言葉を使いますよね。

「このクラブは、外から見るとトップダウンで冷たいように見えることがあるかもしれないけれど、中はとても人間味がある。私たちもよくガッリアーニやブライダと一緒に食事に出かけたりするし、時には会長もそこに顔を出したりする。もちろん選手たちの間でもそうだ。長い間一緒に過ごしている仲間がたくさんいるから、自然と人と人のつながりも強くなる。それが他のクラブと違うところだと思う」

――家族というのは普通、共有し受け継ぐべき価値観を持っていますよね。ミランにとってそれは何なのでしょう?

「何よりも、自分の仕事であるサッカーに真剣に取り組むということ。結果を勝ち取るためには毎日の仕事を勤勉に積み重ねることが必要だということ。優秀な選手を揃えているだけでは、結果を手に入れることはできない。優秀な選手は他のクラブにもたくさんいるからね。一番大事なのは、毎日のトレーニングにどれだけ真剣に取り組み、いい仕事をしたかどうか。これがこのチームに受け継がれている価値観だ。さっき言った“勤勉さのカルチャー”そのものだよ」

――逆に、このファミリーの中でしてはいけないことは?

「ルールを守らないことだね。と言っても、ここではルールがすべて明文化されているわけではない。しかし、ミラネッロにやって来て少し時間が経てば、ここでどのように振る舞うべきか、どう振る舞ってはいけないかは自ずとわかってくる。チームメイトや監督・コーチから食堂のスタッフに対してまでね。そういうミラネッロの流儀はクラブから選手、ベテランから若手へと長い間受け継がれ、築かれてきたものだ」

――ミランが勝者であり続ける上で、ファミリーという価値はどれだけ大きな重要性を担っていると思いますか?

「物事がきちんと機能している秩序と調和がある場所で毎日の仕事に取り組むというのは、重要なことだと思う。戦力的に見ればトップレベルのチームに違いはほとんどない。違いを作り出し勝利をもたらすのは小さなディテールの積み重ねだ。我々はどんなディテールも軽視したり見過ごしたりしないように注意を払っている。クラブも、そして選手たちもそれぞれの立場からそう努めている。ひとりひとりが自分の立場から煉瓦を1つひとつ積み上げて行けば、シーズンの最後に成功を勝ち取る可能性も高まってくる」

――そういうミランらしさには、他のクラブと比較してどんなアドバンテージがあるのでしょう?

「私はミランのことしか知らないから、それを言うのは難しい。でもここにいるクラブの首脳から我々スタッフ、そして選手まで、ほとんど全員がミランのチームカラー、ミランのユニフォームに対して強い誇りと愛着を持っており、ここに留まりたいと願っている。さっき言った経済的な要因とか、そういう何か例外的なことが起こらない限り、ここから出て行こうとはしないからね。優秀な選手であれば、移籍すればするほどたくさんの金を稼ぐことができる。それが今の現実だ。実際ここには、もっと多くを稼ぐチャンスがあったにもかかわらず、それよりもミランに残るという決断を下した選手も何人もいる。誰とは言わないけどね」

――あなたのように、引退後もミランに残って仕事をしている人も少なくありませんよね。

「バレージもそうだしフィリッポ・ガッリもそうだ。大きな貢献を果たした選手に対しては、クラブもそれに報いてくれる。それだけでなく、トップチームでも育成部門でも、ミランというクラブのカルチャーを受け継ぎ教えて行く人間がいるというのは重要なことだ。クラブとしての継続性をもたらすわけだから」

――ただ、長年貢献してきた選手が引退まで残ることは、チームにとってリスクでもあり得ませんか?世代交代が滞ったり、若手がなかなかチャンスを得られなかったり……。

「そういうこともあり得るかもしれないけれど、少なくとも監督はそういうことに振り回されるべきではないし、ここでは大丈夫だ。クラブが功労者の契約をもう1年延長することはあっても、監督の選択に口を挟むことはないし、監督もそういうことには影響を受けない。ピッチに立つのは常に、それにふさわしいプレーを毎日の練習の中で見せた選手だ。功労者のベテランよりも若手の方がいいパフォーマンスを見せていれば、そちらにチャンスを与えるのは当然のことだ。実際今ここでまさにそういうことが起こっているしね」

――インザーギとエル・シャーラウィのことですね。
「誰とは言わないけどね(笑)」

――あなたのキャリアに話を戻しましょう。引退してすぐにここで育成部門の監督として仕事を始めましたが、これは自然な選択だったのでしょうか?

「選手として引退が近づくにつれて、プレーを止めてサッカーの世界を離れることになったらとても残念だろうと思うようになった。それに私はこの世界のことしか知らないけれど、この世界のことなら良く知っている。他の世界でゼロから始めるよりもここで別のキャリアを続ける方がずっとうまく行くはずだと考えたんだ。それでコーチライセンスのコースに通い始めた」

――引退直後から5年間、プリマヴェーラの監督を続けました。その間、他のクラブでトップチームの監督としてのキャリアを始めようとは思いませんでしたか?

「そういう話もあったけれど、その道は選ばなかった。というのも、プライベートで色々なことがあって、小さな子供2人を抱えていたからね。子供たちのためには私がミラノにいることが大事だったから、他の都市で監督になることは不可能だった。子供たちの近くにいる必要があった」

――2002-03シーズンにアンチェロッティの助監督になってから現在まで、監督が変わっても常にトップチームの助監督としてここに残っていますよね。アンチェロッティがチェルシーに去った時には、あなたもおそらく重要な選択を迫られたと思うのですが、ロンドンに行かずミラノに残ると決断した理由はどこにあったのでしょう?

「カルロが去った時も、レオが去った時も、そしてつい数日前にあるところから声がかかった時も(笑)、クラブはそのままここに残るという選択肢を私に与えてくれ、その上で私自身の決断に委ねてくれた。ここから去るという決断を下すのは、私にはいつも難しすぎた。もう32年もここにいて、この場所のことなら何でも知っている。そして何よりもここはとても居心地がいい。そんな場所を去るというのは簡単なことじゃない」

――つい数日前に話があったように(笑)、自分が育った故郷のクラブで監督として指揮を執るというチャンスがやって来てもなお、ここに留まることを選ぶと?

「監督として自分のチームを率いるという考えは、それ自体とても刺激的で魅力的なものだよ。でも実際にそれをするかどうか決断するためには、様々なことを天秤に乗せてみなければならない。その結果として、ここに残るという方に天秤が傾いたということだね」

――その判断は、この先もっと魅力的な話があったとしても変わりませんか?

「その時はその時でまた、すべてを天秤に乗せて考えて、結論を出すだろうね」

――アンチェロッティの後、レオナルドの助監督を務めるというのは、彼が内部から監督になったことを考えれば自然な経緯だったと思います。でもその後のアッレーグリは自分のスタッフを連れてやって来たわけで、その中に入って助監督を続けるというのはあなたにとっても新しい経験だったのでは?

「私自身、続けるべきかどうか迷いがあったことは事実だ。カルロとはサッキの下で一緒にプレーしていた当時からの仲だし、レオのことももう10年以上知っていたわけだから。でもクラブがアッレーグリを選んだ後、私が彼のスタッフの中でどんな立場と役割を担うことができるか、彼自身と話し合って迷いが解消された。初めて話をした時から一緒にやっていけるというポジティブな感触があったんだ。それにクラブも、長年ミランの一員として過ごしてきた私のような人間が彼をサポートすることを望んでいた。そして実際、彼との仕事はとてもうまく行っている」

――助監督としての立場や役割は、アンチェロッティの時と比べて変わりましたか?

「いや、まったく同じだよ。監督とトレーニングのプログラムからメンバー、戦術まですべてのことについて話しあい、選手たちの近くにいて彼らをサポートする。もちろん最終的な決断はつねに監督が下す。私がするのは選択の可能性を一緒に検討し助言することだ。アッレーグリはまだ若いにもかかわらずとても優秀な監督だ。初めてビッグクラブの指揮を執って1年目に優勝するというのは、誰にでもできることではない。それまでミランは長い間スクデットを勝っていなかったわけだから」

――アッレーグリの優秀さはどこにあるのでしょう?

「とにかくサッカーを良く知っている。ピッチ上で何が起こっているのか理解するのがすごく速いし、チームに与える指示もとてもクリアで明確だ。チームマネジメントにも長けている。長年ここでプレーして来たベテランたちに新たなモティベーションを与え、その一方ではさっき話題に出たように、ベテランをベンチに置いて若手を抜擢したり、プリマヴェーラの選手をピッチに送り出すことにも躊躇しない。誰の顔色も窺うことなくチームの勝利だけを考えて決断を下し、結果でその正しさを証明してきた」

――そしてチームもそんな指揮官について行った。

「完全にチームを掌握しているからね。昨シーズンも最後の最後まで気を抜かず、危なげなくスクデットを勝ち取った」

――あなたやインテルのジュゼッペ・バレージのように、クラブを代表してテクニカルスタッフの中に入る助監督という存在は、チームにひとつの継続性を与える上で重要な存在になっているように見えます。それについてはどう思われますか?

「私がクラブの立場を代表しているとは思っていない。私はこのチームに貢献するために仕事をしているスタッフの1人だというだけだ。クラブ側の人間か監督側の人間かというような考え方をしたことはないしね。私はミランが勝つために自分がやるべき仕事をしているだけだよ。実際、いつかアッレーグリがミランを去ることになった時、何が起こるのかは今はわからない。それが起こるのはできるだけ先のことであってほしいけどね。彼と一緒に別のチームに行くことになるのか、クラブからここに残ってほしいと言われるのか。サッカーの世界は明日何が起こるのかもわからない世界だ。もし新しい監督が自分のスタッフだけでやりたいと言った時には、クラブもそれを受け入れるだろう」

――でも次はあなたが監督になるかもしれない。

「(笑)。それは誰にもわからないよ」

――あなたは今ミランの何を代表していると思いますか?

「さあね。それは私じゃなくて他の人が考えることだ。このクラブの歴史になにかしらの貢献を果たした人間のひとりであるとは言えると思う。今もクラブが掲げた目標を達成するための仕事に全面的に参画しているしね」

――今の時点で、他のクラブで監督としてのキャリアをスタートする自分を想像できますか?

「今はノーだね。それは想像できない。でもさっきも言ったようにサッカーの世界は明日何が起こるかわからない」

――最後に、あなたにとってミランとは?

「ひとことで言うのは不可能だね。ここに来た時はほんのガキだったけれど、そのガキが若者になって、ひとりの大人になって、今やもうジジイになろうとしている。52歳だからね。少なくとも、私が人生で最も多くの時間を過ごした場所であることは間違いない。その間には多くの喜びがあった。もちろん落胆や失望もあったけれど、幸運なことに喜びと満足の方がずっと多い32年間だった。そのことには心から感謝しているし、これからもできる限りその勝利に貢献し続けたいと思っている」■

(2012年2月29日/初出:『footballista』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。