サッカーダイジェストWEBに書いたフロジノーネ降格をめぐる原稿が意外に好評だったので、イタリアのサポーター/ウルトラスをめぐるテキストをいくつかあげてみます。ああいう美しい話じゃありませんが……。いままで定期的に書いてきている話なので、過去のテキストと話がかぶっている部分もありますが、まあ大事な話は繰り返しするのが大事wということで。

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イタリアでは、いわゆるサポーターのことを「ティフォーゾtifoso」(複数形はティフォージtifosi)と呼ぶ。これは元々「チフス患者」を意味する言葉で、チフスにかかったように熱狂的にひいきのチームを応援することから、サポーターを指す言葉としても使われるようになったもの。しかし現在ではそれほど強いニュアンスは持たず、単に一般的なサポーターやファンを指す言葉として使われている。

一方、本当に熱狂的にサポートする連中を指すのに使われているのが「ウルトラultrà」(複数形はウルトラスultras)。これは英語からの借用で、ニュアンスとしては「度を超したサポーター」といったところか。毎試合、ゴール裏の一番安い席に集団で陣取って自分たちのグループの名前が入った横段幕を張り、声を張り上げてチームをサポートし続けているのは彼らだ。

ティフォージにしてもウルトラスにしても、イタリアのサポーターがチームに求めることはただひとつしかない。それは「勝利」である。

かつてピアチェンツァ、レッジーナ、アタランタなどのゴールを守り、99-00シーズンにはマンチェスター・ユナイテッドでプレーした経験も持つGKマッシモ・タイービは、あるインタビューでこう語っていた。

「イングランドでは、街を歩いていて声をかけてくるファンは、必ず “All the best!” (ベストをつくして戦ってください)と言うんだ。驚きだったね。イタリアではいつも “Dai, vinciamo!”(頼むよ、勝ってくれよ)とばかり言われてきたから」

大事なのはベストを尽くして戦うことであり結果は問題ではない、というスポーツマンシップに満ちた考え方は、イタリアのサポーターには通用しない。内容よりも結果、いや結果こそがすべて。イタリアサッカーのそういうメンタリティは、ピッチ上だけでなくそれを取り囲む観客席にも、同じように共有されている。

実際、巷で交わされるサッカー談義はもちろん、元選手やジャーナリストが出演するテレビの討論番組でも「いいサッカーをして負けるよりも、ひどいサッカーをして勝つほうが100倍ましだ」、「内容的には悪くない試合が続いているが、結果が出せない以上、監督を変える以外にはない」というようなコメントが、日常的に飛び交っている。

もちろん、セリエA残留を争うような中小クラブのサポーターになれば、明らかに格上のビッグクラブが相手の時には、善戦して敗れ去ったチームに拍手を送りもする。しかし、同じ残留争いのライバルが相手となれば、やはり求めるのは勝つことだけだ。

例えばイングランドでよく見られるように、降格が決まったチームが最終戦でサポーターから拍手で送られる、という場面が演じられることは、イタリアではほとんど考えられない。それどころか、ちょっと負けが込んできただけで、監督や選手、クラブの首脳はティフォージやウルトラスの激しい抗議にさらされてしまうのが現実だ。不振に陥ったチームに痺れを切らせたゴール裏が、試合中延々と味方を罵倒するコールやチャントを続けることも珍しくない。 

イタリアが抱える大きな問題は、このウルトラスの抗議がしばしば、度を越して暴力的なものになってしまうことだ。

ごく最近も、昨シーズン終盤の4月22日に行われたジェノア対シエナで、降格の危機に瀕していたジェノアのウルトラスがスタジアムに発煙筒を投げ込んで試合を中断させ、選手たちに対して「お前らには着る資格がない」とジェノアのシャツを脱ぐことを要求するという事件が起こった。2004-05シーズンのCL準々決勝ミラノダービーの第2レグでは、インテルの敗退がほぼ決まった後半半ばに、インテルのゴール裏から100本を超える発煙筒がピッチに投げ込まれ、試合が中断・没収となっている。

自らが応援するチームに対するウルトラスの暴力は、こうしたスタジアムにおける抗議行動だけにとどまらない。特に「熱しやすい」気質を持つローマや南イタリアでは、不振に陥ったチームの「戦犯」とみなされた選手の車が、練習場の出入り口でウルトラスに囲まれボコボコにされたりすることすら、しばしば起こる。

ウルトラスを暴力的な振る舞いに突き動かすのは、不振に陥ったチームに対する苛立ちだけではない。ライバルチームやそのウルトラスに対する対抗意識、ゴール裏の「自由」を抑圧する警官隊に対する敵意も、容易に暴力に結びついてしまう。

09-10シーズン終盤の2010年5月2日、セリエA第36節のラツィオ対インテルでは、ラツィオのゴール裏が一丸となってインテルを応援し続けて物議をかもすという事件があった。

この時点で首位に立っていたインテルは、2位ローマに4ポイント差まで詰め寄られており、もしラツィオがインテルを下せばローマの逆転優勝が現実味を帯びてくるというのが、この試合を前にした状況だった。ラツィオサポーターの間では、こんな言葉が交わされていた。「インテルに勝てばローマにスクデットをプレゼントすることになる。そんなことは絶対に起こってはならない」。

実際、この試合の数日前には、数人のウルトラスが練習場の入り口でMFバローニオの車を止め、こう囁いて凄んだと伝えられている。「何をすればいいかわかってるな。勝ってローマにスクデットをプレゼントするなどということはあり得ない。言いたいのはそれだけだ。これは冗談じゃない。レーヤ(監督)にもちゃんと説明しておけ」。ゴール裏のウルトラスが「今日は負けろ」「勝ったらお前らボコるから覚悟しろ」といったチャントを歌って味方ラツィオの選手を「脅迫」し続けたこの試合、結果は2-0でインテルの楽勝という結果に終わった。

近年とりわけ目立つのが、警官隊をターゲットにした暴力だ。これは、警官隊が権力、すなわちスタジアム(ゴール裏)の管理と統制を象徴する存在だから。2007年2月のシチリアダービー(カターニア対パレルモ)では、カターニアのウルトラスがパレルモのサポーターを襲撃しようとしてそれを守る警官隊と衝突、市街戦まがいの攻防となり警官1人が命を落とすという事件があった。

同じ年の11月には、パルマでのアウェー戦に遠征途中のラツィオサポーターが高速道路のパーキングエリアで警官の威嚇射撃によって射殺されたのに対して、その日の夜にローマとラツィオのウルトラスが結託、ローマ市内の警察署やイタリアオリンピック協会本部を襲撃するという事件も起こっている。

イタリアのウルトラスは、グループとして非常に強く組織化されているのが特徴である。彼らはゴール裏を自らの聖地であり、誰からも干渉されない聖域だと考えている。そして、その中でも大きな勢力を誇るグループになると、グループの年会費、チケットを会員に売りつけた販売マージン、オリジナルグッズの販売など、ゴール裏を舞台として多岐に渡る「ビジネス」を行い、幹部たちはそれだけで飯を食っているほど。

もちろん「ウルトラス」は、全サポーターのごく一部を占めるに過ぎない存在だ。しかし、実質的にゴール裏を支配し、応援の主導権を握っているだけに、その存在感は決して小さなものではない。それゆえ、彼らはクラブに対しても小さくない影響力を行使できる立場にある。彼らにとって暴力は、まさにその影響力を発揮するための手段であり道具なのだ。イタリアのスタジアムから暴力が消えない理由もまたそこにある。

イングランドやドイツ、スペインでは、クラブと国家権力(警察など)が協力してスタジアムからこうした輩を排除することに成功した。しかしイタリアでは今なお、クラブがウルトラスに対して毅然とした態度を取ることができず、むしろその圧力に屈して様々な便宜を図り続けることで、結果的に暴力を助長し、あるいは餌食になっている。カルチョが抱える大きな闇の部分がそこにある。□

(2012年10月6日/初出:『ワールドサッカーダイジェスト』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。