用語集その6はイタリアサッカーならではの言葉「ファンタジスタ」。最近はこう呼ぶにふさわしいプレーヤーがイタリアからも消えてしまいつつありますが……。文中に繰り返し出てくる「別稿」もそのうちアップします。

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ファンタジスタ fantasista
直訳すると「想像力の人」。カルチョの世界においては、卓越したテクニックとセンスを備え、たったひとつの想像力と創造性に満ちたプレーで試合の流れを一気に変え、あるいは試合そのものを決定づけてしまう天才型のプレーヤーを指す。
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上記の定義は、別稿『「ファンタジスタ」の過去・現在・未来』で触れた内容の繰り返しだ。このコラムでは、それとは少し異なる視点から「ファンタジスタ」について考察してみよう。

良く考えてみると、「ファンタジスタ」というのはひどく定義が曖昧な言葉である。ピッチ上のポジションを表わす呼称(フォワード、ミッドフィールダー、サイドバックetc)でもなければ、担っている仕事を示す呼び名(ストライカー、ストッパーetc)でもない。ボランチ、リベロ、プレーメーカーなどのように、ピッチ上での戦術的機能を抽象的に表わす言葉ですらないのだ。

実のところ、「ファンタジスタ」という言葉はそもそも、たとえば「リベロ」のようにサッカー用語として発明されたわけではない。辞書によれば、元々はミュージカル、バラエティーショーといった舞台芸能の言葉で、即興的な話術や歌で人々を楽しませる多才な芸人を指していたのだという。

それがいつからか、カルチョの世界にも転用されるようになった。つまりイタリア語としては元々、見る者を楽しませるスペクタクル、娯楽的な見世物といったニュアンスを含んだ言葉だということになる。

だから、どれほど正確無比なテクニックの持ち主であろうとも、あるいはどれだけ多くのゴールを決めたとしても、スペクタクル性に満ちた見世物的なプレーを見せてくれないプレーヤーは、「ファンタジスタ」とは呼んでもらえない。

「総合的なサッカーの上手さ」に関して、シャビ・フェルナンデスとアンドレス・イニエスタを超えるプレーヤーはおそらくいないだろう。しかし、彼らのプレーはあまりにも理に適っており、あまりにも没個性的(というかバルセロナ的)だ。

また、1対1のドリブル突破力だけに話を限れば、好調時のアリエン・ロッベンやクリスティアーノ・ロナウドにかなうプレーヤーは今なお皆無と言っていい。しかし、彼らのプレーはあまりにも直線的で、あまりにも反復的だ。

いかに彼らがスーパーな選手であっても、「ファンタジスタ」と呼ぶには何かが足りないという感覚が拭えない。それはたぶん、つまり誰が見てもわくわくしてしまうような「スペクタクル性」や「娯楽性」、そして何より「意外性」だろう。

史上最高の「ファンタジスタ」は誰か、と訪ねられたら、1970年代以前に生まれたサッカーファンは誰もがマラドーナと答えるに違いない。あれだけ意外性に富んだスペクタクルな、それこそ見る者が唖然とするしかないような「とんでもない」プレーを見せてくれるプレーヤーは、他にはいない。彼と比べれば同時代のジーコやプラティニのプレーはずっと理に適っているように見える。

イタリア人プレーヤーならばやはりロベルト・バッジョ。マラドーナのようにトリッキーで派手なプレーを見せたわけではないが、パスを引き出してゴールに向かうまでのアイディアの豊富さとその背景にある繊細きわまりないテクニックは特別だった。キックフェイントを駆使して迫り来るDFを次々と抜き去り、最後はGKにまで尻餅をつかせてから悠々と流し込む。それがバッジョにとっての美学であるかのように、ボールは必ずと言っていいほどサイドネットを揺らしたものだ。

1990年のワールドカップ、イタリア対チェコスロヴァキアで絵に描いたようなカウンターアタックから決めた華麗な4人抜きのドリブルシュートは、彼のキャリアの中で最も重要なゴールのひとつだ。そのゴールを振り返るバッジョ自身の言葉には、「ファンタジスタ」という言葉のエッセンスがすべて凝縮されている。

「サッカーが好きで好きでプレーしている人間にとって、特にファンタジスタならなおさら、いつも夢に見ているのはゴールを決めること自体じゃない。誰も見たことのない特別なやり方でゴールを決めることなんだ。そしてチェコスロヴァキア戦でのあのゴールには、ありふれたところはまったくなかった。意外性に満ちた芸術的なボールタッチのひとつひとつが、直感的に頭に浮かんだんだ。

どうやってあんなプレーができたのか、自分でも信じられない。でも、それこそが他人には決して真似できない、100%オリジナルのプレーなんだ。それがわかった時には、残りのことは全部忘れてもいいような気持ちになる。あの瞬間こそがすべてであり、ぼくにとってのサッカーの真髄はまさにそこにあるから」

別稿でも触れたことだが、21世紀のモダンフットボールはひとつのプレーに対して、当時とは比較にならないほど少ない時間とスペースしか与えてくれない。バッジョの全盛期からすでに20年が過ぎた今、彼やマラドーナが見せてくれたように、純粋にボールと戯れる喜びだけで成り立っているような、美しいけれどある意味で無駄なプレーを披露して喝采を浴びるような牧歌的な空気は、すでに過去のものになってしまった。

別稿では、トップ下でプレーする「10番」という存在を出発点にして、「トレクァルティスタ」というイタリアサッカー的な文脈から「ファンタジスタ」の現在を読み解こうと試みた。その観点に立てば、現代的なファンタジスタと呼べるのは、例えばエジルやパストーレのような、テクニカルでアイディア豊富なトップ下ということになる。しかし、マラドーナやバッジョが見せてくれたような、ボールと戯れる喜びを体現するようなスペクタクルで意外性に満ちたプレー、という観点に立つとすれば、やはり現在の頂点はリオネル・メッシだと思う。

こうして様々な解釈を楽しませてくれる言葉としての懐の広さも、「ファンタジスタ」の素晴らしいところかもしれない。■

By admin

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。