2015年1月1日 プレーヤー

マラドーナ、ナポリでの6年間(2007.03)

謹賀新年。
冬休み読み物特集第7弾は、ディエゴ・アルマンド・マラドーナがナポリで過ごした6年間をまとめたストーリーです。お正月なのでこのくらい偉い人じゃないと、ということで選んでみました。

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1984年7月5日、午後4時。ナポリのスタディオ・サン・パオロは、7万人もの大観衆によって埋め尽くされていた。

暑い西日がスタンドに差し込む、真夏の平日夕方。カルチョはシーズンオフで、サッカーの試合があるはずもない。彼らはただ、この都市が誇る唯一のプロサッカークラブ、SSCナポリがバルセロナから獲得したディエゴ・アルマンド・マラドーナをひと目見るというそのためだけに、仕事も何も放りだして、スタジアムに駆けつけていた。

セリエAは、この4年前(80-81シーズン)に10数年続いた“鎖国”を解き、外国人選手に門戸を開いたばかり。プラティニ(ユヴェントス)、ルンメニゲ(インテル)、ジーコ(ウディネーゼ)、ソクラテス(フィオレンティーナ)、ファルカン、セレーゾ(ローマ)など、世界のトッププレーヤーがイタリアに集結しつつあった。

当時のナポリは、直前のシーズンにはたった1ポイント差で降格を免れたばかりで、戦力的には残留争いがやっとという弱小チームでしかなかった。誇れるものがあるとすれば、それはこのクラブに絶対的な忠誠を誓うサポーターの数、そしてその愛情の濃さだった。イタリアの大都市は、ほとんどが2つのサッカーチームを持っている。ミランとインテル、ユヴェントスとトリノ、ローマとラツィオ、ジェノアとサンプドリア……。しかしナポリには、ナポリしかない。ナポレターノ、つまりナポリ人として生まれたすべての人々は、生まれつきナポリのサポーターなのだ。

真夏の昼下がり、サン・パオロのピッチに姿を現したマラドーナは、1分ほどリフティングをして見せた後、「ナポリの皆さん、こんばんは。ぼくはここに来ることができてとても幸せです」とたったひと言だけイタリア語で挨拶すると、ほんの10分で姿を消した。炎天下で何時間も待ち続けた7万人の人々は、たったそれだけを目にしただけで、もう十分に満足だった。

1年目の84-85シーズン、マラドーナを除くと平凡なプレーヤーの集団でしかないナポリは、開幕からの3ヶ月、13試合でたった2勝しかできず、降格ゾーンに沈んでいた。当時のイタリアは、守備的なマンツーマンの“カテナッチョ”が全盛期。さしものマラドーナも、慣れないディフェンダーのハードマークに戸惑い、わずか3ゴールにとどまった。

しかし、クリスマス休暇が明けたシーズン後半戦、イタリアサッカーに馴染み始めたマラドーナは、本来の力を発揮し始める。年明け後の17試合で11ゴールとハイペースで得点を重ねるディエゴの活躍で、ナポリも急速に勝ち点を伸ばし、最終的に8位というまずまずの成績でシーズンを終えた。

続く85-86シーズン、マラドーナの助言に従ってFWジョルダーノ、DFレニカ、GKガレーラと、センターラインを強化したナポリは一躍、優勝戦線に参入する強豪チームに変身する。首位を独走してスクデットを勝ち取ることになるプラティニのユヴェントスを追いかけ、その座を脅かした末に、ローマに次ぐ3位。マラドーナは自ら決めた11ゴールに加えて、前線のジョルダーノが決めた10ゴールの多くをアシスト、文句なしのリーダーとしてナポリの躍進を引っ張った。

つい2年前にセリエB降格の危機に瀕していたチームが、マラドーナひとりのおかげで、スクデットを射程に収めるまでの躍進を果たしたのだから、ナポリの人々が熱狂しないはずはなかった。

ナポリは南イタリア最大の都市だが、同時に、イタリアという国の中では、南イタリア全体が歴史的に抱えてきた経済的、社会的後進性の象徴のような場所でもある。地元のマフィアである“カモッラ”による地下経済が、表の経済の何倍もの規模を持ち、市民の大半を占める貧困層を食い物にしている都市。まともな仕事につけない人々の多くは、生きて行くためにカモッラが取り仕切る非合法の仕事に手を染める。マラドーナは、そんな人々に辛く困難な毎日を忘れさせ、束の間の夢を与える救世主そのものとなっていった。

続く86-87シーズンは、キャリアの頂点と言ってもいい1年となった。アルゼンチン代表を率いてメキシコ・ワールドカップを制し、世界の頂点に立ったマラドーナは、今度はナポリを、クラブ史上初めてイタリアの頂点に導いたのだ。スクデットとコッパ・イタリアの二冠は、過去にはユヴェントスとトリノしか果たしたことのない偉業だった。

チームには、FWカルネヴァーレ、MFデ・ナポリが加わって更にセンターラインが強固になり、最終ラインもユース生え抜きの若手フェラーラの成長により、ぐっと安定度を増していた。そしてマラドーナは、常にマラドーナだった。

開幕当初、優勝候補に挙げられていたのはユヴェントスとインテル。開幕から2ヶ月、ナポリがアウェーでユーヴェを3-1と粉砕して首位に立った時にも、その座が長く続くと予想する向きは多くはなかった。金にモノを言わせて世界的なスター選手を買い揃え、しかもサッカー界の権力にも強い影響力を持つ“北のビッグクラブ”が、そんな状況を最後まで許すはずがないと思われていたのだ。

しかしナポリは、シーズンが後半戦に入っても首位の座を明け渡すことはなかった。北イタリアの人々から、南部の後進性のシンボルのように、偏見と蔑みの目で見られていたナポリは、アウェーのスタジアムではしばしば「ようこそイタリアへ」とか「石鹸で身体洗ったか?」とかいった侮蔑的な横断幕やコールで迎えられてきたが、本当に優勝の可能性が見え始めると、その風当たりは一層強くなっていった。アタランタのサポーターなどは「飢えたナポリ人に愛を」というスローガンとともに、ナポリの選手たちに向かってゴール裏からバナナを投げこむという挙にすら出たものだった。

だがそれは逆効果でしかなかった。マラドーナは、そんな状況に遭遇するほどに、力を奮い立たせて戦ったからだ。そしてホームのサン・パオロではいつも、7万人の熱狂的な大観衆が敵を圧倒する声援でチームをサポートした。このシーズンのナポリは、ホームで無敗(8勝7分)。困難な状況を生まれ持った才能とファンタジーだけを頼りに切り抜け、奇跡的なゴールを決め、あり得ないアシストを送るマラドーナのプレーに、ナポリの人々は、苦しい毎日を自らの才覚だけでしのぎ暮らす自分たちの姿を重ねたといわれる。マラドーナは、ナポリの人々の神であると同時に、すべてのナポリターノの息子だったのだ。マラドーナ自身、「ナポリではよく、ティ・アーモ・ピュ・ケ・ミエイ・フィーリ、自分の息子たちよりも愛してる、と言われたもんさ」と振り返っている。

スクデットが決まってからの1週間、ナポリの街は延々と続くお祭り騒ぎで、元々脆弱な都市機能が完全に麻痺してしまった。すべての通りは青いテープや横断幕で飾られ、人々は車をハコ乗りして旗を振りながら街を走り回り、広場という広場を埋めた。「あれは街全体のスクデットだった。ナポリの人々は、怖がってはいけないこと、金を持っている者ではなく、最も知恵を使って戦い、勝利を求め続けた者が勝つことを学んだんだ。彼らにとって僕は船長であり、旗印だったんだ」。

ユニフォームの右胸にコッパ・イタリア勝者の印であるトリコロールの同心円、左胸にはリーグ優勝の印であるスクデットをつけて臨んだ87-88シーズンも、ナポリの快進撃は止まらなかった。開幕から首位を独走し、シーズンが残り3試合となった5月1日、2位ミランをホームに迎えた直接対決に勝てば優勝というところまでたどり着く。ところが、圧倒的有利を予想されていたその試合を2-3で落とすと、残り2試合も連敗。十中八九手中にしていた二連覇を、最後の最後でふいにしてしまう。

ナポリの人々の失望は大きかった。終盤戦のこの失速があまりにも不自然だったために、ナポリは優勝を売ったのではないか、という噂が囁かれたほどだった。前年の優勝が予想外だったために、大金を損する羽目になった闇サッカー賭博の胴元(当然カモッラの一員)がナポリの役員と選手に圧力をかけ、その大金を取り戻すために八百長を仕組んだ、という話は、地元では今も広く信じられている。この年は逆に、ナポリ優勝につけられたオッズが不自然に高く、勝利を信じて闇サッカー賭博に大金を賭け大損をした人々が続出した、というのだ。

この噂の真偽は定かではない。マラドーナもそこに一枚噛んでいた、という説もあるが、もちろんそれも噂以上のものではない。確かなのは、マラドーナは肉体の酷使に耐えられず、シーズン終盤に大きくパフォーマンスを落として、最後の2試合を欠場したということだけだ。ナポリに移籍してから4年、ゆっくり休養する時間すらなく出ずっぱりでプレーし続けてきたマラドーナの肉体、そして巨大なプレッシャーとストレスに晒されてきたその精神は、少しずつ悲鳴を上げ始めていた。

ナポリの人々がマラドーナに注ぐファナティックな愛情は、もはや限界を超えて重荷でしかなくなりつつあった。ナポリ湾を見下ろす丘の上にある自宅の前には、その姿をひと目見ようといつも大勢の人々がたむろしていた。「練習場への行き帰りだけで大仕事だった。家の門から猛スピードで飛び出して逃げ去らないと、人垣に囲まれて身動きが取れなくなっちまうんだから。買い物に行くなんてとても不可能だったし、家から一歩も出られなかったよ」と、本人は当時を回想している。気晴らしは、人々が寝静まった夜中になってこっそり家を抜け出して楽しむナイトライフ、そして「いつも誰かが持ってきてくれたから、不自由したことすらなかった」というコカインだった。

それでもマラドーナは、翌88-89シーズンにはクラブにとって初めての国際タイトルであるUEFAカップをもたらす。マラドーナはこの年、当時フランスで大金を投じてチームを強化し、ヨーロッパの頂点を目指そうとしていたマルセイユの会長ベルナール・タピから移籍話を持ちかけられて、完全にその気になっていた。ナポリでの生活は、もはや6年前にバルセロナで味わったのと同じように、息の詰まるようなものでしかなくなっていたからだ。皮肉なことに、あの時はバルセロナの人々から受け入れられなかったことが原因だったが、今度は逆に、ナポリの人々が注ぐ過剰な愛情に押し潰されそうになったせいだった。

UEFAカップの決勝を前に、マラドーナは、タイトルを勝ち取ったらマルセイユへの移籍を実現する、という約束を、ナポリのフェルライーノ会長から取り付ける。しかし、ドイツのシュツットガルトを破って優勝を果たしたにもかかわらず、フェルライーノは移籍を許可しようとしなかった。当時はまだボスマン裁定前で、サッカー選手はクラブの同意がない限り移籍することはできない時代だった。

マラドーナは、翌89-90シーズンが始まってもアルゼンチンでの休暇から戻らないなど、クラブとの間に問題を起こし始める。しかし、ピッチ上では、さらに酷使されてガタガタになった肉体に鞭打つようにして、チームを引っ張った。ナポリは、ミランとデッドヒートを繰り広げた末に、2年前とは反対に残り2試合で逆転して首位に立つと、史上二度目のスクデットを勝ち取る。そしてマラドーナはそのまま、イタリアで行われたワールドカップの舞台に臨むことになった。

開催国のイタリア、前回優勝国のアルゼンチンは共に順調に勝ち進み、準決勝で顔を合わせる。皮肉なことに、その舞台となったのはナポリのサン・パオロだった。

「イタリアの人々はこれまでずっと、ナポリを百姓だとか貧乏人だとか言って疎外し、人種差別的に蔑んで来た。それを忘れて、マラドーナじゃなくイタリアを応援しろと今さら強要するなんておかしいよね。彼らはイタリア人なんだから、イタリアを応援するに決まってるじゃないか。もちろん、マラドーナのアルゼンチンにも敬意は払ってくれるだろうけど」

イタリアのマスコミは、試合を前にしたこの発言を捉えて、マラドーナはナポリの人々にアルゼンチンを応援するよう煽っている、と書き立てた。しかし実際には、マラドーナが煽っているのではなく、彼ら自身がそれを恐れていたのだった。マラドーナの言葉は、あまりにも図星だったのだ。

この試合、サン・パオロを埋めたナポリの人々は、マラドーナの言葉通り、イタリアを応援する姿勢をはっきりと打ち出しながらも、マラドーナのプレーには惜しみない拍手を送るという、模範的な振る舞いを見せた。実のところナポリは、イタリアの中でもナショナリズムの強い土地柄なのである。問題は、そんなナポリを受け入れるどころか差別し蔑んできた、イタリアの他の地域の方なのだ。

しかし問題は、アルゼンチンがイタリアをPK戦の末に破ってしまったことだった。この4日後にローマで行われた西ドイツとの決勝戦、スタディオ・オリンピコを埋めた8万人の観衆は、試合前のアルゼンチン国歌吹奏を、すさまじい口笛と罵声でかき消すことになる。マラドーナはそれを聞きながら、TVカメラにもわかるほどはっきりと口を動かしながら、呪いの言葉を吐き続けていた。マラドーナとイタリアの蜜月が終わりを告げようとしていることが、誰の目にも明らかになった瞬間だった。

イタリア7年目となった90-91シーズン、マラドーナはもはやナポリにとってもトラブルメーカーでしかなくなっていた。フェルライーノ会長との確執はもはや修復不可能なところまで悪化し、チームも中位に低迷。そして91年3月17日のバーリ戦でのドーピング検査でコカインの陽性反応が出たことが明らかになる。15ヶ月の出場停止処分が下った4月1日、マラドーナはブエノスアイレス行きの飛行機に飛び乗って、逃げるようにナポリを去って行った。

溺愛し信仰し続けた神を突然失ったナポリの人々は、しかし、マラドーナに裏切られたとは考えなかった。コカインの検出は、ワールドカップでイタリアを敗退させたことに対する、サッカー協会会長マタレーゼの復讐だと考えたのだ。マラドーナがコカインの常習者だったことは、ナポリでは、そしてカルチョの世界全体でも、公然の秘密だった。

マラドーナはそれ以来長い間、イタリアに来ることはあっても、一度としてナポリの地に足を向けようとはしなかった。しかしそれでもなお、ナポリの人々はマラドーナへの愛を忘れることはなかった。

ナポリを去ってから13年が過ぎた2004年4月、マラドーナはコカインのオーヴァードーズで危篤に陥る。その時、ナポリの旧市街にある、マラドーナを聖人として祀った手製の祠には、こんな祈りの言葉が掲げられた。

聖ジェンナーロさま。
俺はここで生まれ育った、この街の息子です。
今まで人生辛いことばっかりでした。これからもたぶん変わらない。
でも、ここではみんなそうやって生きてる。
だから今日もまた腕まくりして、文句を言わずに働きます。
しんどいけど、食って行かなきゃならないから、何も考えずに働くんです。
でも、聖ジェンナーロさま。頼むからひとつだけ願い事を聞いて下さい。
いや俺のことじゃない。俺はこれで十分です。
俺たちの兄弟が苦しんでいるんです。
奴は遠くからやってきて、この街の息子になった。
俺と同じで、最初は何も持ってなかった。
でもここに来て、たくさんの人々から愛された。
そして、神様が与えてくれた天賦の才で、この街とここで生きるみんなを、世界で一番幸せにしてくれた。
だから今俺たちは胸に手を当てて、たったひとつだけ願いごとをします。
奴の人生最後の試合、命を懸けた戦いに勝てるように、助けてやってほしいんだ。
聖ジェンナーロさま、あなたの息子である俺たちの願いを叶えてくれよ。
涙の中でもう一度こう叫びたいんだ。
ディエゴ、お前は俺たちとひとつだ、って。

ナポリの祈りを神は聞き届け、マラドーナは奇跡的に死の淵から這い上がった。そして、それからさらに1年あまりを経た2005年6月、かつての盟友チロ・フェラーラの引退試合に合わせてナポリを訪れ、サン・パオロを埋めた8万人の観衆と14年ぶりの再開を果たすことになる。ナポリの人々は、マラドーナが初めて姿を現した21年前の夏の日と同じように、長い時間その到着を待ち続け、2度のスクデットと2つのカップを共に祝った時と同じように、マラドーナのテーマソングとも言うべき有名なチャントでスタジアムを満たした。

「オー、マンマ、マンマ、マンマ。どうして胸がどきどきするんだろう。マラドーナを見たからさ。マラドーナを見たんだ。ねえ、マンマ、もう夢中なんだ」□

(2007年3月6日/初出:『サッカーベストシーン10 LEGENDペレ&マラドーナ』
 
 

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 新しい著書(共著)『元ACミラン専門コーチのセットプレー最先端理論』が好評発売中。 他の著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。

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