冬休み読み物特集その2は、現UEFA会長ミシェル・プラティニとユヴェントスのストーリーです。

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ミシェル・プラティニがユヴェントスで過ごしたのは、82-83シーズンから86-87シーズンまでの5シーズン。年齢でいえば27歳から32歳までである。その間、3年連続でセリエA得点王とバロンドールを獲得し、スクデット2回、カップウィナーズカップ、チャンピオンズカップ、トヨタカップ各1回と、望み得る全てのタイトルを手に入れた。まさにキャリアの絶頂期を送ったと言ってもいい。

しかし、改めて振り返ってみると、その絶頂期は、思ったよりもずっと短い。真の輝きを見せたのは、チームに馴染めず苦しんだ最初の半年間を経て、ユヴェントスで本来の力を見せ始めた83年春から、スクデット、カップウィナーズカップ、そしてフランス代表主将として欧州選手権を勝ち取った83-84シーズン、チャンピオンズカップ獲得(とヘイゼルの悲劇)で幕を閉じた84-85シーズンを経て、トヨタカップであの幻のゴールを演じ三度目のバロンドールを手にした85年12月までの、わずか2年あまりと言ってもいい。それから87年5月の引退に至るまでの1年数ヶ月は、緩やかなフェイドアウトのための時間だったようにも見える。

余談になるが、そのプレーも言動もエスプリの固まり、フランス人の極みのような印象を与えるプラティニだが、実はイタリア系の両親を持つ移民3世である。ナンシー、サンテティエンヌというフランスのマイナークラブで頭角を現し実績を積んだ後、プレーヤーとしての絶頂期である27歳で移籍した先が、ほかでもない祖父のオリジンであるピエモンテ州にあるユヴェントスだったというのは、何とも奇妙な符合である。

しかし、彼にとってイタリアでの5年間は、幸せなだけの歳月では決してなかった。
85-86シーズンから2年間、ユヴェントスでプラティニと共にプレーしたマッシモ・マウロ(現解説者)によれば、「ミシェルは、引退する1年以上前から『もうサッカーを純粋に楽しめなくなった』と口にしていた」という。

その大きな理由は2つあった。ひとつは、ひたすらに勝利を追求し、ただ勝ち続けるためだけに勝つ、というイタリアサッカーのメンタリティ、そしてその権化でもあったユヴェントスというクラブの体質に、最後まで馴染めなかったこと。「努力を必要としない、言葉の純粋な意味での天才であり、ただ自らが楽しみプレーする歓びを感じるためだけにボールを蹴っていた」(マウロ)というプラティニにしてみれば、結果だけが全てというイタリアの勝利至上主義的なメンタリティは、心の底では耐え難いものだったようだ。しかしプラティニは、そんな自らのオリジンに対する愛憎ともいうべき感情を、ほとんど表に出すことなく自らの内に抱え込んでいた、とマウロは言う。

もうひとつの理由は、1985年5月29日に起こった“ヘイゼルの悲劇”だった。39人もの死者が出たことを知らされることなく、異様に張りつめた空気の中で戦い、自らのPKでタイトルを勝ち取ったプラティニは、表彰式をキャンセルしてロッカールームで渡されたビッグイアーを持ってピッチに戻り、それを掲げて一周した。「スタジアムの雰囲気は確かに異様だった。しかし試合は本物の試合だった」。これは当時のコメントである。しかし、単なる遊び(プレー)であり歓びであるはずのフットボールの舞台で、これほど深刻な悲劇が起こり、しかもその事件を当事者として経験しなければならなかったという事実は、プラティニの心に深い傷を残したといわれる。

体力的にはまだ、あと数年はトップレベルでプレーできたに違いない。しかし、もはやサッカーを心から楽しむためだけにプレーすることが不可能だと悟った時、プラティニに残された選択肢は、シューズを脱いでピッチを去ることだけだった。

1987年5月17日、トリノのスタディオ・コムナーレで行われたユヴェントス対ブレシアが、プラティニの最後の試合になった。セレモニーも何もなく、土砂降りの雨に降られてどろどろになったユニフォームで、空席の目立つスタンドに手を振ってロッカールームに姿を消し、32歳でそのキャリアに幕を下ろした。

プラティニの引退は、生来のタレントに恵まれたアーティストが華麗な技と創造性を競う、ロマンティックな「天才の時代」の終わりでもあった。象徴的なのは、プラティニ引退の翌年、87-88シーズンのセリエAを制したのが、185cmを超えるしなやかな体躯に正確なテクニックを備えたスーパーアスリートたる「オランダトリオ」(グーリット、ファン・バステン、ライカールト)を擁し、組織的でアグレッシブなモダンフットボールを展開する「サッキのミラン」だったという事実である。そしてそのミランは、フットボールの世界にマネーとビジネスを本格的に持ち込んだ張本人でもあった。

フットボールの世界はすでに、ミシェルが知っている、そして愛してきたそれとは違うものに変化し始めていた。彼はそれを誰よりも敏感に感じ取っていたに違いない。□

(2007年7月17日:初出:『サッカーベストシーン・ジダン&プラティニ』)

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片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げ、カルチョそして欧州サッカーの魅力をディープかつ多角的に伝えている。 最新作は『チャンピオンズリーグ・クロニクル』(河出書房新社)。他の著書に『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)、『モウリーニョの流儀』(河出書房新社)、『モダンサッカーの教科書』(共著、ソル・メディア)、『アンチェロッティの戦術ノート』(共著、河出書房新社)、『セットプレー最先端理論』(共著、ソル・メディア)、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』(共著、光文社)、訳書に『アンチェロッティの完全戦術論』(河出書房新社)、『ロベルト・バッジョ自伝』(潮出版社)、『シベリアの掟』(東邦出版)、『NAKATA』(朝日文庫)など多数。