※マリオ・スコンチェルティは00-01シーズンの途中に『コリエーレ・デッロ・スポルト』紙の編集長から旧ACフィオレンティーナの副会長に転身し、01年5月までその座にありました。ファティ・テリム監督のクビを切ってロベルト・マンチーニを招聘したのは彼。

以下は、ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ時代末期のフィオレンティーナを知るための貴重な証言です。インタビューは、新生Acfフィオレンティーナがプレーオフでペルージャを下してセリエA昇格を決めた、その翌日に行われました。

bar

――コリエーレ・デッロ・スポルト紙の編集長がフィオレンティーナの副会長に転身した、その事情を聞かせてください。そう滅多に起こる話じゃないと思うんですが。

「2つの話は別々に起こったことですよ。私は、フィオレンティーナに行くためにコリエーレ・デッロ・スポルトを辞めたわけじゃありません。

10年以上新聞の編集長を務めてきて(Corsportは5年、その前にはジェノヴァの日刊紙イル・セーコロXIXの編集長だった)、この仕事ではなすべきことは成し遂げたと思ったのです。だから他のことに取り組んでみたかった。具体的に何をする、というのがあったわけではありません。

当時の私は、将来に不安を抱いた若者に戻ったような状態でしたからね。でもそれからすぐ、ほんの数日後に、フィオレンティーナからオファーが来て、私はそれをすぐに喜んで受けました。

私はフィレンツェ人で、ずっとフィオレンティーナのサポーターでしたから、センチメンタルな部分でも惹かれるオファーだったし、新しい冒険として魅力的だったからです」

――チェッキ・ゴーリのオファーはどういうものだったのでしょうか?

「チェッキ・ゴーリのオファーは非常に魅力的なものでした。私が、彼が所有するすべての会社を束ねるゼネラル・ディレクターになるというものだったのです。もちろん映画部門も含めてです」

――それは知りませんでした。

「私はチェッキ・ゴーリ・グループの持株会社であるFinMaViのゼネラル・ディレクターに就任したんです」

――ルチャーノ・ルーナのかわりというわけですね?

「ルーナは当時、フィオレンティーナだけに専念しており、私はグループ全体を管理していました。そしてそれから1ヶ月半後には、ルーナが辞任していなくなりました。その穴が開いてしまって、いろいろな問題が起こり始めたので私がフィレンツェに行くことになったわけです」

――当時すでにフィオレンティーナの財政は傾いていました。あなたが就任した時はどんな状況だったのでしょうか?

「私が就任した時には1520億リラの負債がありました。そのシーズンの運営コストも含めてです。1520億リラというのは凄い金額ですが、当時はそれを穴埋めできるだけの環境がありました。カルチョメルカートの相場が非常に高かったからです。実際、フィオレンティーナはルイ・コスタを850億リラ、そしてトルドを550億リラで売却しています」

――前の年にはバティストゥータも売っていました。

「そうバティストゥータもね。ともかく850億と550億で1400億リラに達するわけで、今ではとても不可能な数字です。だから我々はむしろ、フィオレンティーナの経営に継続性を持たせることが課題だと考えていました。

倒産から救うか救わないかというのとはレベルが違う話です。というのも、フィオレンティーナはチェッキ・ゴーリに対して700億リラの貸しがあり、私はそれが回収できることを期待していたからです」

――それより前、トラパットーニ監督とゴヴェルナートGMの時代に、フィオレンティーナは背伸びをしています。“7シスターズ”の一員になってすぐにスクデットを勝とうとして、失敗した。あなたは経営者として、違うタイプのプロジェクトを構想していたのでしょうか?

「いや、私にはひとつのプロジェクトを立てる余裕すらなかった。私のプロジェクトは、チームを生き延びさせることでした。明日のことを考えている余裕はなくて、今日のことだけで手一杯でした。

数字を挙げてみましょう。99年、フィオレンティーナだけでなくイタリアサッカー界全体がそうでしたが、99年から2001年までの2年間で、運営コストが50-60%も増加しています。

さらにいくつか数字を挙げましょうか。偉大な経営者が所有する大都市のビッグクラブであるミランが99年に優勝した時、人件費総額は1030億リラ、いや990億リラでした。

ところが2001年のフィオレンティーナの人件費は、1030億リラに達していました。たった2年間で、ミランと同じレベルまで人件費が増えてしまったわけです。もちろん支え切れるわけがありません」

――当時の売上高はどのくらいだったのですか?

「売上高ですか?売上高は2000億リラに達していませんでした。入場料と年間チケットで240億リラだけ。ルイ・コスタとキエーザと、その他何人かの年俸だけでパーですよ。

それに、スカイから500億リラの放映権料がありました。支出からそれを除いた700-800億リラはまるまる赤字でした。だから、最初にやるべきことは、この収支の不均衡を是正することでした。でもそのためには、チームの戦力を落とすことが避けられませんでした」

――あなたが就任してすぐ、問題が起こりました。テリムは契約更新を拒否し、それにフィレンツェの人々が怒って……

「いやそうじゃない。私がフィレンツェに送られたのは、その問題が生じたからです。ルーナが辞任していなくなり、テリムの問題が起こったために、私がその解決のためにフィレンツェに行ったということです。実際のところ、テリムはすでにミランと契約を交わしていました。その後に明らかになった通りね。

私はテリムのことを尊敬していたし、今も尊敬しています。でもテリムは、イタリアでよく使う言い方をすると、正しい人物が間違った場所にきた、というような存在でした。というのも、まったく違う文化の持ち主だったからです。ミランでも同じような問題を抱えたでしょう?

彼は自分の文化に従ってモノを考えた。トルコの文化ではなく、彼自身クラブはこうあるべきと考えているその文化です。しかしそれは我々のクラブの文化とは全く違う。ミランもフィオレンティーナも、ある意味では非常に特殊な企業文化を持っています。クラブはオーナー一族の所有物であり、それを理解して運営にあたることが必要です。テリムのように譲歩しない強情な態度ではやっていけない。

でも実際テリムは、その場を敵味方の2つに割るタイプの人物でした。一方は彼を崇拝し、他方は嫌う。クラブの内部に居心地の悪い空気を作り出す人物でした。何とかバランスポイントを見出そうと試みて、1ヶ月か1ヶ月半の間はうまく行きました。それからテリムが負け始め、それでチェッキ・ゴーリは彼を首にすることを決めたのです。

あれが拙速に過ぎる判断であり、我々に問題をもたらすものであることはわかっていましたが、クラブのオーナーは彼であり、我々は彼の決断に従うことしかできません。そこから大きな問題が持ち上がりました。

とはいえ、我々は幸運でした。マンチーニという後釜を見つけることができましたから。チームは持ち直して、コッパ・イタリアを勝つことができた。しかしその間にも、クラブの財政は悪化する一方でした」

――の間、フィレンツェまるごとがフィオレンティーナに対立しました。あなたもフィレンツェ全体を敵に回すことになった。

「ええ。でもフィレンツェ全体ではなく、サポーターの大部分ということです。というのも、私はチェッキ・ゴーリは多くの間違いを犯したと思っていたし今でも思っているけれど、それはフィレンツェに対する愛情からであることも間違いありません。

私は、チェッキ・ゴーリはフィレンツェとフィオレンティーナに、町本来が持っている可能性を大きく越えたレベルの輝きをもたらしたと思います。だから、少なくともそれなりの敬意は受けるべきだと思っていた。

私はチェッキ・ゴーリとその息子とスタジアムに行ったことがありましたが、ウルトラスからはひどい、許しがたいコールが彼に対して浴びせられました。私はそういうことはどうしても我慢できないたちなので、フィレンツェを敵に回すことになったのです。絶対におかしいと思ったから」

――自分の生まれ育った町と対立するというのは、どんな感情をもたらすものなのでしょう?

「でも、強い決断を下した時はいつでもそうですが、クルヴァ(サポーター席)の中にも私に好意を持っている連中もいたんですよ。実際私は、クルヴァと対立していた」

――コレッティーヴォ、Atf……。

「ええ、コレッティーヴォ・アウトーノモ(クルヴァ・フィエーゾレの最大勢力)をはじめ、フィオレンティーナには限界があるということを理解できない連中と対立していたんです。フィオレンティーナはその限界を認めた上で評価されなければならなかった。ビッグクラブと同じだという夢を見ているわけにはいかなかったのです。

実際そうではないのだし、ビッグクラブを支えられるだけの都市でもないのだから。ですから、あの3、4ヶ月の間、私の感情はつねに揺れ動いていましたよ。そういう揺れ動く感情というのは恋愛と同じで、人を疲れさせ干上らせるものです。ずっと肉が火の上であぶられていて、何かが起こるたびにそれがひっくり返されるという感じ。

でもそれはそれでファンタスティックだった。自分がすごいテンションの中で生きている自覚があるから。200台ものTVカメラに囲まれて、すべての人々から注目を浴びて、誰からも無視されない。ある人々は私を愛しある人々は私を憎んでいた。両極端でした」

――アントニョーニとTV番組で口論した場面を憶えています。

「あれは間違いだった。しかしあの日フィオレンティーナはクラブの実体すらなくなっていたんです。8人のスタッフが一度に辞任し、私はクラブをひとつにまとめ、新しい組織を作り直さなければならなかった。

あの行為(辞任)は私に言わせれば間違った行為だとわからせなければならなかった。その方法を誤ったことは確かです。私は自分の情熱と誇りにとらわれてしまった。

でもアントニョーニは今でも、フィオレンティーナはもちろんサッカーの世界からも外側にいます。私はアントニョーニのことを今も好きですが、皮肉なことに彼は、フィオレンティーナが自分を必要としている以上に、自分がフィオレンティーナを必要としているのだということが理解できなかった」

――どうして、マンチーニをフィレンツェに連れてくることにこだわったのでしょう?彼は、エリクソンの片腕だったことを除けば、それまで監督の経験すらなかったわけですが。

「あの時点で監督の選択肢が非常に少なかったからです。シーズンも終盤に入っていた。彼以外のどんな監督を選んでも、ある種の妥協にしかならなかった。マンチーニを選ぶという斬新で思い切った決断は、フィレンツェの人々との対立において私の立場を挽回する大きな武器になり得る賭けでした。オール・オア・ナッシングの賭けです。マンチーニは大きな希望であり、人々を引きつけ新たな信頼を勝ち取るきっかけだった」

――その賭けには勝ったわけですよね。

「ええ勝ちました。でもフィレンツェの人々にとっても重要だったのは、あの最後の4ヶ月は大きな希望を胸に抱いて戦ったということです。シーズンの終わりに向かって、単にフィオレンティーナが生き延びるためという後ろ向きな状況ではなく、新しいプロジェクトを始めようという状況が生まれていた」

Q:つまりその4ヶ月で改めて人々を巻き込むことに成功したと。

「ええ、それは明らかです。そして私は、コッパ・イタリア優勝の4日後に辞任することになった。コッパ・イタリアを勝ち取ったその夜は、素晴らしい祝祭の夜でした。昨日の夜(注:インタビューはフィオレンティーナがプレーオフに勝ってA昇格を決めた翌日に行われた)と同じようにね。我々は過去30年で2回しかコッパ・イタリアを勝っていないんですから。

フィレンツェの人々が歓喜に溢れ、私を賛えてくれるのを見ましたよ。私は心の中でずっと、こういう時が来るのを待ち望んでいた。しかし同時に、それが映画の始まりではなく、あの栄光の時は終わりの時であることも気づいていました。私のフィレンツェにおけるストーリーを扱った映画の終わりのシーンだったのです。

そしてその4、5日後、クラブの経営とチームの強化が不可能だという事実の前に、私は、ここまでだ、と自分に言ったのです。私は(もしクラブを倒産させたら)法的な責任を担う立場にありましたから、決断を下さなければならなかった。私はチェッキ・ゴーリを批判するようなことは一切言いませんでしたが、でもどういう状況かはわかっていた……」

――辞任の理由は?

「辞任すべきだと思ったのは、バルセロナでのことです。私はバルセロナにトルドを500億リラで売る話をまとめたところでした。この500億リラですべての問題が解決するわけではありませんでしたが、とりあえず生き延びることはできた。

しかし同時に私は、その時一緒にいた彼、チェッキ・ゴーリが、どれだけ問題に対する認識を欠いているかを思い知らされました。彼は、バルセロナでその金でリヴァウドを買おう、と言ったんです。私は冗談でしょ?と返した。いや本気だ、リヴァウドを買おう、という答えでした。彼はフィレンツェの人々と和解するために、ビッグネームを必要としていたんです。

彼の頭の中はフィオレンティーナが抱えている問題からあまりに遠いところにありました。これではもうどうしようもない、と私は悟りました。私が間違っていたのかもしれない、しかしリヴァウドを買って何とかなるような状況ではまったくなかった。

我々は10人の選手を売却しなければならなかった。そしてすでに4人の獲得を決めていました。新しいプロジェクトを立上げる必要があったからです。人々もそのプロジェクトを支持していた。すべてを始めるために、まず新しいプロジェクトが必要だったのです」

――買ったのはミハイロヴィッチ……

「私はミハイロヴィッチとスタンコヴィッチを買い、マルキオンニ、そして今ヴェネツィアでプレーしているパトリック・アンデションを買いました。そして10人の選手を売り始めていたところでした。しかしチェッキ・ゴーリはそれを認めなかった。私からいかなる選手売却の権利も取り上げるという文書を送ってきたのです。そうなってしまったら、私にも辞任しか残っていなかった」

――あなたは、フィオレンティーナの破綻は避けられなかったと思いますか?それとも何らかの解決があった?

「私は解決の道はあったと……ただし2つの条件つきです。ひとつは選手を売却すること。レプカ、ルイ・コスタ、トルドの3人ですでに1550億リラはカバーできていたんですよ。そしてもうひとつの条件は、チェッキ・ゴーリがフィオレンティーナに700億リラを返却してくれるということです。それがあれば翌シーズンの運営資金が賄えたから、チームとしての継続性を保ちながら、倒産を避ける道を探す時間が作れた」

――その時点で、チェッキ・ゴーリにはその金を返却する能力がないということは知っていましたか?

「いいえ。あなたも憶えていると思いますが、チェッキ・ゴーリは前年、2000年の夏に所有していた2つのTV局を1兆リラでテレコム・イタリアに売っています。そのうち2500億リラをすぐに受け取りましたが、それは負債の穴埋めで一瞬のうちに消えました。

5000億リラは株式で受け取りましたが、その株は大暴落した。まだ2500億リラ残っていたのですが、彼はこの交渉の成り行きに満足していなかったので、訴訟を起こして係争を始めてしまいました。

この係争はすぐに決着がつくかとも思われたのですが。ひとつ例をあげれば、チェッキ・ゴーリは2001年の2月に、テレコムと6000-6200億ユーロで手を打つのを拒否しているんです。7500億ユーロ受け取る権利があると主張して譲らなかった。しかし3年たった今もその訴訟は続いています。でもその間にフィオレンティーナは消えてなくなってしまった」

――どうしてチェッキ・ゴーリはあなたに耳を貸さなかったのでしょう?

「彼が映画界のアーティストだからですよ。彼は現実とは別の世界に生きている。世の中のリアリティとは関係のないところでね。

生きているのは映画の世界のリアリティの中で、最後の15分で必ず助けがやって来ると信じている。最後の15分は必ず正義が勝つ、ハッピーエンドになると信じているけれど、現実はそうじゃない。私が間違ったのかもしれないけれど、私と彼のどちらかが間違ったことは確かですね」

――それから1年後、フィオレンティーナは破綻して消滅しました。あなたはその時どこにいましたか?どんな気持ちでニュースを聞きましたか?

「大きな不安を抱きながらニュースを聞きました。とても悲しい気持ちだった。倒産するかしないかという問題ではなく、フィオレンティーナが消滅することはあってはならなかったから。人々の愛情が消えてなくなるわけじゃありませんからね。

でも、たくさんの“鮫”たちを見ることになった。フィオレンティーナの選手たち、トップチームのプロだけじゃなくてユースの17,18歳の子供たちまでを、他のクラブが来てさらって行くのを見ていました。フィオレンティーナでトップチームにデビューしたばかりの若者たち数人がユーヴェに、それ以外にもたくさんの選手が……」

――モレッティ、パロンボ……。

「そう、まるで自分の家が略奪に遭って、一番いいものだけじゃなくてそれこそ天井裏まで、ありとありゆるところをひっくり返して持っていかれたようでしたよ。そういう気持ちだった」

――フィオレンティーナのサポーターとクラブの関係は、非常に特殊なもののように見えます。

「これはこの都市の歴史に関係していることだと思います。フィレンツェはコムーネ(自治都市)、シニョーリア(領主制)という政治形態を発明した。つまり、市民はつねに政治に参加してきた、自らの手で自分たちの都市を治めてきたということです。

たとえば、西洋世界で最も偉大な建築家のひとりはブルネレスキという名前です。フィレンツェのドゥオーモとバチカンのクーポラ(円天井)を作った人です。フィレンツェのクーポラは、どうしてああやって支えなしで崩れずにあの形を保っているのか知られていません。同じものを何百回試してもうまく行かない。

その建設中、ブルネレスキが現場から下に降りてくると、いつもフィレンツェの市民が彼を待ち構えていて、今日は何をしたのか聞かなければ気が済まなかった。そういう過剰なほどの参加意識が、フィレンツェが世界の中心だった時代からずっと残っている。それは間違いない」

――でも今はそうじゃない。

「フィレンツェは過去に生きている都市です。この3世紀というもの、フィレンツェから天才は出ていない。私たちは天才を生む都市だと自慢しますが、過去300人のフィレンツェ人は過去のフィレンツェ人が残してくれたものを頼りに生きているだけです。今のフィレンツェにはそういう悪癖がある」

――あなたにとってacフィオレンティーナ、旧フィオレンティーナとは?

「いや私はもう区別しません。私はみずからの実存と引き換えに、素晴らしい経験をしました。私は、一銭も払わずにフィオレンティーナをこの手に収めたたったひとりのフィレンツェ人なんですよ。それは誇らしく持っていますが、今はひとりのサポーターです。だから私にとっては、今のフィオレンティーナは旧いそれと同じですよ」

――じゃあ昨日は大きな喜びだったでしょうね。

「昨日はとても幸せでした。私はサッカーが好きですから。仕事の材料としてだけでなく、自由の証しとしてもね」

――あなたはこのセリエA昇格を正しいことだと思いますか?セリエBに拾われて、ガウッチ式ともいえる強引な強化で6位を勝ち取りセリエAにたどりついた。

「暴力的な経営だったと思います。フィオレンティーナをサッカーの世界から消し去るという決定と同じようにね。だからそれは、その反作用だったともいえるし」

――穴埋めみたいなものだったと。

「そうもいえるかもしれません。その意味でこの結末は正しかったと思いますよ」

――おまけの質問が4つあります。イタリアでは今ほとんどのクラブが財政危機に陥っています。あなたは、どうしてこういう結果になったとお考えですか?

「それは、稼いだ金額よりもずっと多くの金を使ったからですよ」

――それをやってしまったのは何故なのでしょう?

「クラブ経営者たちの心の底に、まさか倒産させられることはないだろうという傲慢な考えがあったからでしょうね。実際、ここまでそのツケを払ったのはフィオレンティーナだけです」

――確かに。ラツィオやローマは……

「この国は、偽造パスポート問題が起こった国です。実際、偽造パスポートを使って訃報入国した選手を使って優勝したチームが存在します。でも何も起こらなかったこの国は、ダーヴィッツがドーピングで4ヶ月の出場停止になり、パゴットが同じ罪状で2年間の出場停止になる場所です。

この国のサッカーは、負債や滞納金の長期分割を認める国です。どれだけの金額が分割を認められたか知っていますか?10億8000万ユーロです。10億8000万は、たった4チームの負債ですよ。

そのうちひとつは、分割を認める法律案にサインしたこの国の首相の持ち物です。そのおかげで2500億リラ(訳注:イタリア人は今でもよくユーロとリラをごっちゃにして話す)の赤字を免れた。

この国は真面目な国じゃありませんよ。いや、カルチョが真面目じゃないということか。でもたぶんこの国も真面目じゃないんでしょうね」

――この経済危機の原因のひとつは、TV放映権バブルがあったと思います。それと、選手の移籍金と年俸の高騰。

「TV放映権料は、この世界に生きる全員を金持ち気分にさせた。それは確かです。選手たちは、金持ち気分のクラブにたくさんの金を要求した。でもクラブは金持ちなわけではなかった。

クラブが持っていると思っていた金は、この先何年かかけて入ってくるはずのものだったのに、みんなそれを先回りして全部使ってしまった。その結果、どうしようもない状況に全員が追い込まれてしまった」

――ボスマン判決のもたらした影響も小さくなかったと思いますが。

「ボスマン判決は、選手に大きな力、大きな権力をもたらした。その結果、彼らはそれまでは想像もできなかったような高級取りになることができた」

――契約が切れるとフリーになれるという状況は、選手、そして代理人の振舞いをまったく変えたということですね。

「ええ確かに。考えてもみてください。ひとりの選手は、クラブには年俸の100%じゃなく110%のコストがかかるんです。なぜだかわかりますか?代理人への報酬までクラブが払っているからです。

私がクラブの役員だとして、私が目の前で話している相手(代理人)は、他の誰か(選手)のためにここに来ているわけですが、その相手(代理人)の報酬は私が支払うことになる。

しかも、単なる契約更新の時ですら、それを支払わなければならないんですよ。契約した年俸の10%ですから、500万、600万ユーロの年俸だと、50万、60万ユーロを代理人に支払わなければならない」

――選手の年俸に10%乗せた額ということですよね?

「そう」

――それはそうあるべきものなんでしょうか?

「いやそんなことはない。でも選手が支払いたがらないんですよ」

――それはおかしいですよね?

「ええおかしいですよ。だから、私がカルチョの世界が抱える問題を解決するためにはどうすればいいか、ということに取り組んでいた時、今はそこからは離れていますが、その時に言ったのは、代理人のフィーは選手に払わせるようにしよう、ということでした。それだけでクラブは10%も支出を削減することができる」

――来シーズンからセリエAは20チームに増えます。あなたはこれに賛成ですか、それとも……

「私はかなり好意的に見ています。というのは、私は代表の活動には賛成ではないからです。シーズン中の代表の活動は、散漫なものにしかなり得ないしその点ではサッカー界全体のムーブメントの助けになりません。

代表は継続的なサポーターを持っていない。人々は特定の時にしか代表のサポーターにはならない。だから、カンピオナートの中断は少なければ少ないほどいいのです。降格3チームというのは少な過ぎると思う。でもとりあえず見てみましょう。様子を見る必要がある」

――でも、昇降格の水門を占めようという方向に行っていますよね?

「降格をなくそうとしていますね。というのも、降格したクラブはセリエA並みの給料をセリエBでも支払わなければならないからです。破産するのにこれ以上の方法はない」

――今ヨーロッパの多くのクラブがアジア市場に目を向けています。イタリアでもこの流れは広まるでしょうか?

「ええ、そう思います。いくつか理由があります。ひとつは、あなたがた(アジア)の選手は値段があまり高くないし、潜在的な能力がまずまずある。アジア人のプレーヤーは、これから30年間のサッカーを担う存在になると思う。というのは、とても敏捷で持久力が高いから」

――フィジカルは強くないですが。

「フィジカルは強くない。でもすごく敏捷です。それに、生まれつき規律に適したところがある。練習すべき時には練習するし、規律と秩序を備えたプレーヤーです。つまり、余り高くない、潜在能力がある、そして背景に巨大なマーケット、非常に豊かなマーケットを持っている。安い値段で多くのファンを持つ選手が手に入るということです。これは非常に魅力のあることです」

Q:あなたのフィオレンティーナも、中田の獲得に乗り出しましたよね。

「ええ、それはわれわれだけじゃありません。中田は技術的に見て非常に重要な選手ですよ。私は彼が21歳の時から追いかけていますが、ペルージャでの1年目と2年目で、運動能力が50%もレベルアップした。50%ですよ。

中田は、トレクァルティスタのテクニックを持ったミッドフィールダーに成長しようとしていた。そして今そうなろうとしている。

中田は……、それに私はミウラ、カズ・ミウラのことを今でも憶えていますよ。当時は彼をプレーさせるためにスポンサーが金を払っていた。でも今、アジアのプレーヤーたちは重要な存在です。

アフリカ人のように重要ではありませんが。アフリカ人は今や決定的な差を作り出す存在ですからね。ユーロのイングランド対フランスを見てましたが、22人のうち15人が黒人でしたよ」

――フランスで、生粋のフランス人はバルテスだけでした。あれがサッカーの未来だったらあんまりだという気が個人的にはするんですが……。じゃあそういうことで、今日はどうもありがとうございました。

「どういたしまして」

By tifosissimo

片野道郎(ジャーナリスト・翻訳家) 1995年からイタリア在住。ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を拡げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。 著書に『チャンピオンズリーグの20年』、『増補完全版・監督ザッケローニの本質』、『アンチェロッティの戦術ノート』、『モウリーニョの流儀』がある。『アンチェロッティの完全戦術論』などイタリアサッカー関連の訳書多数。